第048話 風の道
見えない壁の前で、三人は立ち尽くしていた。
あさひとこよい、そして巾着の中の風の神。町の空気は重く、風の流れは細い糸のように縛られている。
風が通らない場所は音も薄い。遠くの鳥の声が壁にぶつかり、途中で消えていく気がした。こよいは胸の奥に冷たい棘が刺さるのを感じ、巾着を抱き直した。
巾着の中の風が、小さく息を吐くたびに布が震える。その震えが弱い。風の神が、息苦しさを訴えているのだと分かった。
葉が落ちても、地面に当たる音が鈍い。空気が重くなり、時間まで遅くなったように感じられた。風が止まると、世界はこんなに静かになるのかと、こよいは初めて知った。
「……この壁、どこまでも続いてるみたい」
こよいは壁に沿って少し歩いてみた。
道だけでなく、民家の屋根も、畑の畦道も、見えない境界線で断ち切られている。
まるで巨大なガラスの容器を町の上から被せられたような閉塞感。空の色さえ鈍く見えた。
家の煙突から上がるはずの煙も、見えない壁の手前で滲んで止まる。呼吸の出口が塞がれているようで、こよいは無意識に息を深く吸った。
風鈴の音も鳴らない。布が垂れていても揺れない。音と動きが吸い取られていく感じが、町全体に広がっていた。
「ただの壁じゃない。空間の性質を書き換えられてるんだ」
あさひが剣を鞘に納め、考え込んだ。
「物理的に壊すのは無理だ。……この壁を維持している『核』を見つけるしかない」
あさひは壁に耳を当て、低い機械音を確かめた。音は町の中心へ向かうほど強くなる。彼は目を細め、方角を探る。
「見つけたら、すぐに壊す」
あさひはそう言い切った。その言葉はこよいを励ますより、自分自身に向けた誓いのようだった。
こよいは腰の地図を開き、町の中心に印をつけた。火の見櫓へ行けば、流れが変わる。そう信じるしかない。
『……みえる』
巾着の中から、風の神の声がした。
さっきよりも、はっきりと。
『……かぜの、ながれが、あつまる、ところ』
「風? 何が見えるの?」
『……あそこ。……そらの、うえ』
こよいは、風の神が指し示した(と感じた)方向を見上げた。
町の中央にある古い火の見櫓。
その頂上付近に、空気が陽炎のように揺らめいている場所があった。光が折れ、そこだけ空が歪んでいる。
こよいは目を凝らした。陽炎の向こうで、薄い光の糸が揺れているように見えた。町の揺らぎが集まる場所だと、風の神が教えてくれている。
火の見櫓は、昔は火事を知らせるための場所だったはずだ。人を守るための塔が、今は人を閉じ込める装置になっている。その皮肉が、こよいの胸を刺した。
塔の周りの広場は静まり返り、石畳の上に落ちた枯れ葉さえ動かない。風がないと、広場は音のない空間になる。こよいはその静けさに飲み込まれそうになり、唇を噛んだ。
「あさひ、あそこ!」
あさひも顔を上げた。
「……火の見櫓か。確かに、あそこだけ気流が不自然だ」
「あそこに核があるの?」
「たぶんな。……奴らは高い場所を好む。無線か何かを飛ばして、広範囲を固定しているんだろう」
二人は町の中央へ引き返した。
火の見櫓の周りには人影はなかった。けれど近づくにつれて、あの「ジジジ……」という耳障りなノイズが強くなっていく。肌がざらつき、髪が静電気で立った。
こよいの耳の奥が痛み、胸が少し苦しくなる。風の神が巾着の中で小さく唸り、怖いけれど進めと言っているようだった。
遠巻きに町の人たちが集まり、息を潜めて見守っていた。期待と不安が混じった目が、こよいの背中を押す。自分が失敗すれば、この町の時間は止まったままだ。
「大丈夫だよ」
こよいは自分に言い聞かせた。
櫓の足元には観測者の機械が設置されていた。
杭のような形をした複数の送信器。そこから伸びる光の糸が、空中の核へと繋がっているのが、こよいの目にはおぼろげに見えた。地面の白い粉が、風に吹かれて薄く舞っている。
粉は町の揺らぎを封じるための術式なのだろう。踏み込むと、足元からひやりとした冷気が上がってくる。こよいは息を止め、足を引いた。
光の糸が瞬くたび、壁の表面がほんの一瞬だけ揺れた。核がここで脈打っている。こよいは巾着を握り直し、風の神に小さく声をかけた。
鼻の奥がツンとする。金属が焼けるような匂いと、どこか甘い薬品の匂い。観測者の機械は自然とは違う臭いを放っている。こよいはその匂いに眉をひそめた。
「あれを壊せば、壁は消える?」
「いや、下の杭はただの補強だ。本命はあの上だ」
あさひは櫓の梯子を見上げた。
「俺が登る。お前はここで、神様と一緒に『気』を乱してくれ」
梯子は古く、木が雨の名残で湿っている。あさひは一段だけ踏み、強度を確かめた。崩れれば落ちる。それでも登るしかない。
「気を乱す?」
「観測者は安定を好む。風の力で、この場所の数値をメチャクチャにするんだ。そうすれば、核の防御が弱まる」
あさひの声は冷静だが、剣を握る手には力が入っている。これが勝負だ。こよいはそう感じ、巾着をしっかりと握り直した。
「怖い?」
あさひが短く問いかけた。
「……怖い。でも、やる」
こよいの声は小さいが、揺れていなかった。
しおりさんの笑顔が浮かぶ。約束の言葉が胸の奥で灯りを揺らした。怖くても、止まるわけにはいかない。
「……分かった。やってみる」
こよいは巾着の口を緩めた。
「お願い、風。思いっきり暴れて!」
『……まかせて!』
巾着の中から小さな竜巻が噴き出した。
火の見櫓の周りを風が渦を巻いて駆け巡る。砂埃が舞い上がり、機械のランプが赤く点滅し始めた。町の布がはためき、瓦が震え、空気がざわめく。
竜巻が回るたびに、こよいの髪も大きく揺れた。目を開けているのがやっとだが、風の流れが戻り始めているのを肌で感じる。
風が渦を巻く中心で、白い粉が舞い上がり、術式が崩れる音がした。こよいは腕を広げ、風の流れを導くように身体を傾けた。風の神の気配が、少しずつ力強くなる。
こよいの腕が痺れ、肩が重くなる。けれど風の神の声が耳の奥で響き、「まだ」と背中を押す。こよいは歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。
足元がふらつく。砂が舞って視界が白くなる。こよいは膝を曲げ、地面に踏ん張った。ここで止めれば、町がまた閉じ込められる。そう思うだけで、腕に力が戻る。
「いいぞ! その調子だ!」
あさひが梯子に手をかけた。
その瞬間。
「異常を検知」
背後から無機質な声が響いた。
振り返ると、路地の陰から三人の観測者が現れていた。
灰色の作業着。鍔付き帽子。
その手には捕獲用の網のような武器が握られている。網の縁が青白く光り、空気が冷えた。
「……ちっ、お出ましか」
あさひが剣を抜き直した。
「こよい、風を止めるなよ! 奴らは俺が食い止める!」
「あさひ!」
「前を見てろ! 自分の仕事に集中しろ!」
あさひが観測者に向かって飛び出した。
嵐の中での、新しい戦いが始まった。
こよいは風を止めず、塔の上を見上げ続けた。
胸の鼓動が風と重なり、音が一つに溶けていく。
町の空気が、わずかに動き始めた。
止まっていた埃がふわりと舞い、塔の影がほんの少しだけ揺れる。
こよいはその揺れに、風が戻り始めた兆しを見た。
まだ弱いが、確かに生きている動きだった。




