第046話 宿場の灯
山を降り、街道を半日ほど歩くと、次の宿場町が見えてきた。
「山吹宿」。
大きな川のほとりに開かれた町で、周囲にはその名の通り山吹の花が咲き誇る豊かな場所だという。
けれど、町に入った瞬間、こよいは肌寒さを感じた。
気温が低いわけではない。
人々の気配が、どこか冷たいのだ。
山吹の花は確かに咲いているのに、その色が薄く見えた。風が花弁を揺らしても、誰も足を止めない。
通りを歩く人々はうつむき加減で、互いに言葉を交わすことも少ない。子供たちが走り回る姿もなく、商店の主も客を呼び込む声に力がなかった。まるで町全体が深い霧の中に閉じ込められているかのような、淀んだ空気。
道端の水桶には水が張られているのに、波紋がない。町の時間が止まっているような錯覚に、こよいは背筋を撫でられた。
「……変だな」
あさひが周囲を鋭い目で見回しながら囁いた。
「活気がない。……いや、活気を奪われているのか」
「奪われてる?」
「観測者が近くにいる証拠だ。あいつらは、人々の感情や揺らぎも『ノイズ』として抑え込もうとするからな」
あさひの声は低く、風の隙間に溶けた。こよいは頷き、町の空気を吸い込む。胸の奥が少し苦しい。
こよいは巾着を握りしめた。
中では風の神が、不快そうに身じろぎをしている。
『……いきが、しにくい』
神様にとっても、この空気は苦しいらしい。
巾着の布がわずかに震え、こよいの手のひらに冷たい風が触れた。
町の外れに、川の流れが見えた。
水は澄んでいるはずなのに、光が鈍い。川面の音も、どこか細く弱々しい。
川沿いの石には古い縄が巻かれ、誰かが何かを封じようとした痕跡が残っていた。こよいは足を止めたが、あさひに肩を軽く押され、歩みを再開する。
橋の下には小さな舟が繋がれていたが、誰も乗っていない。舟の木は乾ききり、川の流れに揺れているだけだった。
「とにかく、今日はここで宿を取ろう。無理に夜道を歩くよりはましだ」
あさひに連れられて、路地裏にある小さな旅籠に入った。
「つばめ屋」という名の、古びたが手入れの行き届いた宿だ。玄関の軒に小さな提灯がぶら下がっているが、その灯は他の町の灯よりも薄い。
帳場には年配の女将が一人座っていた。顔は柔らかいが、目の奥が疲れている。あさひが短く挨拶すると、女将は頷くだけで声を発さなかった。
床板は磨かれているのに、どこか冷たい。踏むと薄く軋み、足音が妙に大きく響いた。
女将は帳面を滑らせ、静かに鍵を差し出した。手の動きが丁寧で、長い時間この宿を守ってきたのだと分かる。こよいは小さく頭を下げ、鍵を受け取った。
通された部屋は二階の端で、窓からは町の全景が見渡せた。
夕闇が迫る中、町中に灯がともり始める。けれど、その灯はどこか弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
窓枠に手を置くと、木が冷たかった。外の風が細く鳴り、灯の揺れと混じり合う。こよいは巾着を机の上に置き、布の口を結び直した。
部屋の畳は新しいはずなのに、どこか湿った匂いがした。旅の汗が染みた着物を脱ぐと、肩の力が少し抜ける。それでも、胸の奥にあるざわめきは消えない。
その時、廊下から小さな足音が聞こえた。誰かが行き交っているのに、声がない。宿全体が息を潜めているようだった。
戸の隙間から、灯に照らされた人影が通り過ぎた。顔は見えないが、足取りが重く、ゆっくりだった。こよいは無意識に巾着を抱え、息を止めた。
「夕飯だ。食えるうちに食っておけ」
あさひが持ってきた膳には、温かい麦飯と川魚の塩焼き、それから山菜の煮物が乗っていた。湯気の匂いが鼻をくすぐり、こよいの腹が鳴る。
こよいは黙々と箸を動かした。
温かい食べ物が、冷え切っていた体の中に染み渡っていく。塩気が舌に広がり、少しだけ心が和らいだ。
魚の骨を外す指先が少し震えた。疲れと緊張が、まだ抜けていない。こよいは深く息を吐き、肩の力を落とした。
巾着の中から、微かな風が漏れてきた。温かい湯気と混じり、手のひらをくすぐる。風の神も、この食事の匂いに少しだけ安心したのだろうか。
「あさひ……ぼくたち、どこまで行くの?」
不意に不安が口を突いて出た。
霧原町を出て、いくつもの境を越えてきた。神様を届け、また新しい神様を拾った。旅はいつまで続くのか。どこに行けば終わるのか。
あさひは茶をすすりながら、遠くを見つめた。
「神雧の場所までだ」
「神雧……」
「全ての神が集まる場所。そこへ行けば、この世界の歪みも、観測者の支配も終わる……と言われている」
あさひの声は、どこか遠い国の伝説を語っているようだった。
彼自身、それがどこにあるのか、本当にあるのかさえ確信を持てていないのかもしれない。
それでも、あさひの目は揺れていなかった。行くべき場所がある、という覚悟だけは確かだった。
「でも、行かなきゃならねえ。……止まれば、俺たちもあの町の人みたいに、色を失っちまうからな」
あさひの言葉は重かったが、こよいは頷いた。ここで立ち止まれば、町の冷たい空気に飲み込まれてしまう。その直感が、背中を押した。
窓の外の灯がまた一つ消え、部屋の中の影が濃くなる。こよいはその影を見つめ、心の中で「負けない」と呟いた。
こよいは窓の外を見た。
暗闇に沈んでいく町。
灯火が一つ、また一つと消えていく。
灯が消えるたびに、胸の中の不安が増していく。だが、巾着から送られてくる微かな風が、その不安を押し返してくれた。
(ぼくは、消えたくない)
心の中で、強く願った。
しおりさんとの約束。母との約束。
それらすべてを果たすまで。
巾着の中の風の神が、微かな風をこよいの手のひらに送ってくれた。
まるで、「ぼくもいるよ」と励ましてくれているみたいに。
こよいは巾着に耳を当て、小さく「ありがとう」と呟いた。返事はない。それでも、その温かさは確かだった。
「……うん。行こう。神雧まで」
その夜、こよいは深い眠りについた。
けれど、夢の中で冷たい鉄の杭が地面に打ち込まれる音が、いつまでも響いていた。
遠くで川の水が鳴る音も混じり、こよいの夢は途切れ途切れになった。目を覚ました時、外はまだ暗かったが、巾着の中の風が小さく笑っている気がした。
窓の外から、かすかな足音が遠ざかる。誰かが夜の町を歩いているのかもしれない。こよいは布団の中で身を縮め、また目を閉じた。
眠りは浅かったが、風のぬくもりだけが、こよいを支えていた。
夜の底で町の空気がさらに沈むのを感じる。それでも巾着の中の風は小さく回り続け、その音が子守唄のようにこよいの呼吸を整えていった。
遠くで鐘が鳴った気がするが、夢か現か分からない。川の匂いと水音が薄く漂い、窓の外の灯が揺れるたび、夜は静かに更けていく。
風が頬を撫で、こよいは明日も歩くと胸の中で誓った。巾着の回転が小さな支えとなり、こよいは安堵のまま眠りに沈んだ。




