第045話 風を連れて
風が、止んだ。
唐突に。
世界から音が消えたかのように。
自分の息と、遠くの心臓の鼓動だけが大きく聞こえる。耳の奥がじんじんと痺れ、空気が重く感じられた。
山頂に静寂が戻った。
砂埃がゆっくりと沈んでいく。空気に残っていた金属の匂いが薄れ、遠くの鳥の声がかすかに聞こえ始めた。
斬られた機械の残骸から、まだ煙が上がっている。ケーブルが地面に散らばり、白い粉の円が踏み荒らされていた。
観測者たちは、いつの間にか消えていた。
あさひが機械を壊し、神が消えたことで、「観測不能」と判断して撤退したのだろうか。彼らは潮が引くように痕跡を残さず去っていく。残ったのは焦げた機械と、断ち切られたケーブルだけだ。
彼らの足跡も、風の名残に消されていく。こよいはそれを見て、胸の奥が冷えるのを感じた。いつでも戻ってくる。その覚悟が必要だ。
こよいは、その場に座り込んでいた。
巾着を両手で包み込んでいる。
重い。新しい重さ。暴れるような、でも今は静かな、風の重さ。
指先から血が滲み、布に小さな赤い点が染みた。痛みよりも、巾着の重さが現実だと教えてくれる。
あさひが近くの布を裂き、こよいの指に巻いた。布がきつく締まり、痛みが少しだけ和らぐ。こよいは小さく礼を言い、手のひらを握り直した。
「……よかった」
入ってくれた。助けられた。
安堵で、涙が出そうになった。指先の切り傷がじんじんと痛むが、それさえ嬉しく感じる。
「怪我はないか」
あさひが近づいてきた。
息が少し上がっているが無傷だ。頬に浅い切り傷が一本。剣を鞘に納める音が、カチンと響く。
あさひは布を裂き、頬の傷を乱暴に拭った。血の匂いが一瞬だけ強くなる。
「うん。平気。……あさひは?」
「かすり傷だ。……それより、そっちはどうだ」
あさひはこよいの巾着を見た。
「入ったのか」
「うん。風の神様」
巾着の中から、微かな音がした。
ヒュウ、という寝息のような音。
さっきまでの荒々しさは消え、穏やかな風の音になっている。
風が布の中で小さく回り、こよいの指先をくすぐった。冷たいのに、優しい。
「……おちついた」
声が聞こえた。
今までの神様とは違う、少し高い、少年のごとき声。無邪気で、自由な響き。
「……ここ、せまいけど、あんしん」
「……もう、いたくない」
「……あの、てつ、こわい」
小さな声が震えた。鉄の杭、機械の檻。その恐怖がまだ体に残っているのだろう。
「もう大丈夫。ここには鉄の匂いはないよ」
こよいがそう言うと、巾着の中で風が小さく息を吐いた。冷たい風が指先をなぞり、安心の合図のように感じられた。
「よかった」
こよいは微笑んだ。
巾着を胸に抱え、目を閉じる。風の感触が手のひらに残っている。冷たいのに、優しい。
胸の奥が熱くなる。助けられた。それだけで、旅の重さが少し軽くなった気がした。
目を閉じると、遠い空の匂いがした。自由な空を渡った風の記憶が、こよいの胸をくすぐる。
「名前は?」
あさひが聞いた。
「……しらない」
神様が答えた。
「……わすれた」
「……ずっと、ひとりだったから」
まただ。
名前を忘れている。水路の神と同じ。忘れられ、固定されかけ、自分を失ってしまった神。でも、今はそれでいい。これから探せばいい。
「じゃあ、風だな」
あさひは適当に言った。
あまりにも安直な名前に、こよいは吹き出しそうになった。
「そのまんまじゃない」
「分かりやすくていいだろ」
「……かぜ」
神様が、その言葉を転がすように繰り返した。
「……うん、かぜでいい」
「……ぼくは、かぜ」
気に入ったようだ。
風の神。四柱目の仲間。
巾着がふわりと膨らみ、風が小さく回った。こよいの髪が揺れ、あさひが鼻を鳴らす。
空を見上げると、雲が流れていた。
さっきまでの淀んだ黒い雲ではない。白く、速く、西へ向かう雲。風が雲を運んでいく。空気が軽くなり、山の木々が静かに揺れた。
こよいはその流れを目で追った。雲の影が山腹を滑り、光が戻ってくる。世界が、ようやく呼吸を始めたようだった。
それでも、山頂には焦げた機械の残骸が残っている。こよいはそれに背を向け、もう振り返らないと決めた。
あさひは壊れたケーブルを一つずつ切り離し、足で踏み折った。火花が散り、焦げた匂いが一瞬だけ立つ。完全に止めることはできなくても、今はこれで十分だと彼は判断したのだろう。
「行くぞ」
あさひが言った。
「奴らはまた来る。長居は無用だ」
「うん」
こよいは立ち上がった。
巾着を撫でる。空っぽだった巾着に、また命が宿った。重いけれど、嬉しい重さ。この重さが、こよいを生かしている。
膝が少し笑ったが、足はしっかりと地面を踏んだ。山頂の空気はまだ冷たく、指先が痺れる。こよいは深く息を吸い込み、体に残った恐怖を吐き出した。
あさひは先に道を確かめ、崩れた岩を避けながら進路を選んだ。足元の土は風に削られて滑りやすい。こよいはその背中を追い、石に手を添えて慎重に下り始める。
山腹の木々がざわめき、土の匂いが濃くなる。風の神が巾着の中で小さく回り、方向を示すように揺れた。こよいはその揺れに合わせるように足を運んだ。
足首に小石が当たり、痛みが走る。こよいは歯を食いしばり、転ばないように体を傾けた。山道の険しさが、旅の厳しさを改めて教えてくる。
肩にかかる巾着の紐が擦れ、皮膚が熱くなる。こよいはそれでも手を放さなかった。風を守ることが、今の自分の役目だと分かっているからだ。
息を整えるたびに、胸の奥が少しずつ落ち着いていった。風の神の重みは、恐れではなく守るべき命の重みだった。
汗が冷え、背中がぞくりとしたが、足は止まらない。
風が背中を押し、こよいの歩幅を揃えてくれる。
空の色が少しずつ深くなっていった。
影が長く伸び、道を染めた。
夜が近い。
風は止まらない。
遠くで鳥が鳴いた。
静かな夜だ。
星が滲む。
足元の土が柔らかく崩れる。山を降りるのは簡単ではない。それでも、今は足が軽かった。
「行こう、風」
「……うん。いこう」
「……もっと、とおくへ」
こよいとあさひは、並んで歩き出した。
西へ。
まだ見ぬ神々が待つ、旅の空へ。
背中に残った風の気配が、二人を包む。山の上で凍えていた空気が、ゆっくりと温かさを取り戻していく。
足元の石が転がり、谷の方へ落ちていった。音が遠くへ消えるまで、こよいは聞いていた。次の一歩が、また新しい旅の始まりだった。
巾着の中で風が小さく回り、こよいの耳元に囁く。
「……そら、みたい」
「うん。見せるよ。もっと遠くの空を」
こよいが答えると、風が嬉しそうに震えた。あさひはそのやりとりを横目で見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
山腹の向こうに、薄い夕焼けが滲み始めていた。次の宿場へ急がなければならない。こよいは歩幅を整え、風と同じ速さで前に進んだ。
遠くに川のきらめきが見えた。宿場の灯はまだ小さいが、確かにそこにある。こよいはその灯を目印に、足を止めなかった。
肩にかかる荷が重くても、巾着の重みがそれ以上に心を支える。風の神がそばにいる。その事実が、疲れよりも強い力になっていた。
風が、二人の背中を優しく押していた。
それは旅立ちを祝福する、新しい風だった。




