第044話 風の檻
山頂は、異様な光景だった。
本来なら木々が生い茂っているはずの場所が、円形に切り払われ、赤茶色の地面が剥き出しになっている。切り株の匂いがまだ残り、削られた土から鉄と油の臭いが立っていた。
踏みしめるたびに土が硬く鳴り、靴底に細かな砂が絡みつく。空は低く、雲が渦を巻いている。
そこに、複数の機械が設置されていた。
三脚に乗った黒い箱。点滅する赤い光。太いケーブルが地面を這い回り、中央の一点に集まっている。地面には白い粉が撒かれ、奇妙な円がいくつも描かれていた。
機械の内部からは低い唸りが漏れ、金属が震える音が耳の奥に響く。風が止まらないのは、ここで空気が押さえつけられているからだと、肌で分かった。
観測者たちがいた。
五人。いや、六人。
無機質な作業着を着て、鍔付き帽子を目深に被っている。黙々と機械を操作し、時折帳面に何かを書き込んでいる。感情のない、機械のような動作。
帽子の影に隠れた顔は見えない。声もない。人間というより、仕組みそのものが歩いているようだった。
そして、中央に。
黒い風が渦を巻いていた。
竜巻だ。でも、ただの竜巻じゃない。中に、何かがいる。
獣のような、人のような、不定形の影。それが、見えない檻に閉じ込められて暴れ回っている。檻にぶつかるたびにバチバチと火花が散り、悲鳴のような音が響く。空気が甘い金属臭を帯び、髪の先が逆立った。
風の中心から、細い泣き声が漏れるたび、こよいの胸が締め付けられた。あの影は、怒っているだけじゃない。助けを求めている。
「固定率、80パーセント」
観測者の一人が抑揚のない声で言った。
「揺らぎを圧縮中。……個体の崩壊まで、あと少し」
崩壊。
神様が、壊れてしまう。
「……やめて!」
こよいは叫んだ。
飛び出しそうになる足を、あさひが止めた。
「待て。正面から行っても捕まるだけだ」
「でも、あの子が!」
「俺が奴らを引きつける」
あさひは剣を抜いた。
風の中で、銀色の刀身が冷たく光る。
その光に、こよいは一瞬だけ救われた気がした。
「お前は、あの風の中に入れ」
「え?」
こよいは耳を疑った。
あの暴風の中に? あの怪物の懐に?
「神を鎮められるのは、お前だけだ。……お前の巾着を使え」
あさひはニヤリと笑った。
不敵な笑み。
「俺が道を開ける。……信じろ」
「……うん!」
こよいは頷いた。
信じる。あさひを。そして、自分を。
しおりの言葉が胸の奥で蘇る。「届けて」。その約束が、足を前へ動かす力になった。
「行くぞ!」
あさひが飛び出した。
速い。
風を切り裂いて、観測者たちの群れに突っ込む。観測者たちが反応する前に、一番手前の機械を斬りつけた。
ガガガッ!
火花が散り、機械が爆発する。黒い煙が立ち、赤いランプが一斉に明滅した。
「敵対的干渉を確認」
「排除行動へ移行」
観測者たちが一斉にあさひに向いた。
手にした道具から、衝撃波のようなものを放つ。
衝撃波が地面を削り、土が跳ねた。あさひは剣で風を切り、身を滑らせるように間合いを詰める。帽子の影から覗く目が一瞬だけあさひを捉えたが、次の瞬間には視界から消えた。
「遅い!」
あさひは身を翻してかわし、二人目の観測者を蹴り飛ばした。剣が風を切り、ケーブルが切断される。火花が弾け、地面の円が一部消える。風が一瞬だけ暴れ、黒い渦の中で叫び声が上がった。
あさひは勢いを殺さず、三脚の機械に剣を叩きつけた。刃が金属に噛み合い、甲高い音が響く。機械が火を噴き、観測者の一人が後ろに転がった。
敵の注意が、完全にあさひに向いた。
「今だ、こよい!」
「はい!」
こよいは走った。
風の渦へ。
神様の元へ。
足元の土が渦に吸われ、足首が引かれる。こよいは踏ん張り、身体を低くして進んだ。
背中で機械の音が高くなり、観測者の声が遠ざかっていく。あさひが敵を引きつけてくれている。その背中に支えられていることが、怖さを押し返した。
近づくにつれて、風圧が凄まじくなる。
体が吹き飛ばされそうだ。砂が顔を打つ。痛い。目を開けていられない。でも、止まらない。
『……クルナ』
『……キエロ』
拒絶の声が聞こえる。
怒りと、恐怖の声。痛みによる叫び。
「……こわくない」
自分に言い聞かせた。
あれは魔物じゃない。
泣いている神様だ。痛いから、暴れているだけだ。
渦の中に飛び込んだ。
視界が真っ暗になる。轟音。体中が切り刻まれるような感覚。皮膚が裂け、髪が千切れ、息が奪われる。
耳の奥が痛む。呼吸をするたびに砂が喉に入り、咳が出そうになるのを必死に堪えた。
風の壁が何重にも重なり、身体が押し戻される。こよいは巾着を胸に抱え、足を踏ん張った。足元が崩れ、膝が砂に沈む。それでも、腕だけは前に伸ばした。
その中心に、影がいた。
うずくまって、泣いている小さな影。
息を吸うたびに、風が細く鳴る。涙のような湿り気が、頬を叩いた。
かつては澄んだ空を渡っていた風が、今は狭い檻の中で縮こまっている。こよいはその姿に胸が痛んだ。
こよいは巾着を開いた。
巾着の口から、微かな冷気が漏れる。空だった袋が、今は誰かを迎えるために開いている。その開口部が、小さな家の入り口のように見えた。
「……おいで!」
叫んだ。
風の音に負けないように。
「ここなら、痛くないよ!」
「ここなら、自由だよ!」
影が、顔を上げた。
赤い目。怒りと悲しみに染まった目。でも、その奥に、助けを求める光が見えた。
「……たす、けて」
声が聞こえた。
本当の声。
「……くるしい」
「うん。助ける」
こよいは手を伸ばした。
暴れる風の中に、手を差し伸べた。指先が切れる。血が出る。
構わない。
血が風に溶け、細い赤い糸になって消えた。こよいはその糸が風に混ざり、神様に届くことを願った。
「……おいで!」
影が揺らいだ。
そして、ゆっくりと、こよいの手に向かって伸びてきた。
黒い霧が晴れ、透き通った風の塊となって。
その風の中に、一瞬だけ青い空の匂いがした。山の上で感じた、自由な風の匂いだ。
こよいの指が、風に触れた。
冷たい。でも、優しい感触。
氷水のように冷えたのに、心は温かかった。
次の瞬間、風は渦を巻いて巾着の中へと吸い込まれていった。
渦が静まり、轟音が遠のく。
世界が、静かに息を吐いた。
機械の唸りも細くなり、赤いランプが一つ、また一つと消えていく。山頂の空に、やっと本当の風が戻ってきた気がした。
こよいは膝をつき、肩で息をした。汗と砂が混じり、頬に冷たい筋を残す。
「こよい!」
あさひの声が遠くから響いた。こよいはその声に頷き、巾着を抱きしめた。風の重みが、確かにここにいると教えてくれる。
視界の端で、観測者たちが機械を抱えて後退していくのが見えた。風が戻った山頂は、彼らにとって居場所ではない。こよいはその背中を見送り、深く息を吐いた。
風が頬を撫で、久しぶりに温かい空気が肺に満ちる。こよいはその感触を胸に刻み、巾着を握り直した。
砂が足元をさらりと流れ、空が少しだけ明るくなった。
それは嵐の終わりを告げる、静かな色だった。




