第043話 狂った風
朝になっても、風は止まなかった。
むしろ夜中よりも強くなっている気がする。戸の隙間から砂埃が舞い込み、部屋の中はざらついている。火を落とした囲炉裏からはまだ焦げた匂いが残り、空気は乾いていた。
こよいは目を覚ますと、まず巾着を確かめた。
空の袋が、薄く震えている。遠くの風が、まだ泣いているのだ。
昨夜の火の灰を踏むと、ぱちりと小さな音がした。冷たい灰が足裏に散り、夜の名残が指先に残る。
「行くぞ」
あさひは剣を背負って立ち上がった。
こよいも慌てて荷物をまとめ、後を追う。水筒を満たし、乾燥した薬草を袋に詰め直す。今日の風は、昨日よりも険しい。
口に入れた干し餅は固く、噛むたびに顎が疲れた。それでも腹に何か入れないと体が持たない。こよいは黙って飲み込んだ。
外に出ると、強烈な向かい風に煽られた。
村の上手、山の方角から風が吹き下ろしてくる。木々が悲鳴のような音を立てて軋み、枯れ葉が竜巻のように舞い上がっている。普通の風じゃない。重く、粘気のある、怒りを含んだ風だ。
「……匂いがする」
こよいは鼻を押さえた。
鉄の匂い。錆びた鉄と、油の焦げたような匂い。
あの時、霧原町で嗅いだのと同じ匂いだ。
観測者の匂い。
舌の奥に金属の味が残り、唾を飲み込んでも消えなかった。
「ああ。奴らが何か仕掛けている」
あさひは険しい顔で山を見上げた。
「源流はあそこだ」
山の稜線の上で、雲が不自然に渦を巻いている。風がそこへ吸い込まれ、また弾き返されるのが見えた。こよいは胸の奥がざわつき、巾着を握り直した。風の神の気配が小さく震える。
その震えは、まるで早く行けと背中を押す指のようだった。
二人は風に逆らって山を登り始めた。
道はない。獣道を、草をかき分けて進む。登るにつれて風圧が増していく。まるで、何者かが「ここから先へは来るな」と拒絶しているようだ。髪が引きちぎられ、頬が切れる。こよいは袖で顔を覆いながら、あさひの背中を見失わないように必死で進んだ。
足元の草は根元からねじれ、土は乾いてひび割れていた。風が植物の水分を奪い、山全体が枯れた皮膚のように見える。こよいは自分の喉が乾くたびに水筒に手を伸ばし、少しずつ水を飲んだ。
息が白くなる。
体温はあるのに、風が肌の熱を奪っていく。こよいは足元を確かめ、滑りやすい岩を避けた。足裏が痛む。だが、風の泣き声が耳に残り、足は止まらない。
途中、倒れた木の根元に古い縄が絡まっているのを見つけた。誰かがここで祈りを捧げたのだろうか。縄は乾いて裂け、触れただけでぼろぼろと崩れた。ここまで人の気配が途絶えていることが、逆に不気味だった。
一時間ほど登ったところで、奇妙なものを見つけた。
地面に、金属の杭が打ち込まれている。
太さは子供の腕ほど。長さは分からない。地面深くに刺さっている。
黒い金属でできていて、表面には幾何学的な模様が刻まれている。杭の頭には赤いランプがゆっくりと点滅していた。近づくだけで、耳の奥が痛くなるような低い振動が伝わってくる。
赤い光は脈拍のように明滅し、そのたびに空気がわずかに震えた。こよいの髪が静電気で立ち、指先に細かい痺れが走る。
「……これ」
こよいは杭に近づいた。
近づくだけで空気がビリビリと震えるのが分かる。髪が逆立ち、指先が痺れる。
「観測者の楔だ」
あさひが言った。
「土地を固定するための杭だ。地脈を止めて、揺らぎを殺す」
「……だから、風が狂ってるの?」
「ああ。流れを止められた風が、行き場を失って暴れているんだ」
あさひは杭を蹴りつけた。
硬い音がするだけで、びくともしない。火花が散り、赤いランプが一瞬だけ速く点滅した。
砂が舞い上がり、こよいは目を細めた。足元の小石が吸い寄せられるように杭に集まり、妙な磁力を感じる。
「川をせき止めれば、水は溢れる。風も同じだ。……奴らは、この山全体の『気』を止めようとしている」
こよいは杭を見つめた。
冷たい機械。これが、神様を苦しめている。
この杭のせいで、あの影のような怪物が生まれたのだ。
「抜けないの?」
こよいは杭に手をかけた。
冷たい。ビクリと静電気が走る。
力を込めて引っ張ってみるが、岩盤と一体化しているかのように動かない。
「無理だ。物理的な力じゃ抜けない」
あさひが首を振った。
「術式で固定されている。……元を断つしかない」
あさひの声には怒りが混じっていた。こよいはその怒りが風に向かっていることを感じ、胸が熱くなる。
「元?」
「この杭を打った奴らだ。あるいは、この仕組みを制御している中枢だ」
あさひはさらに上を指差した。
山頂の方角。
風が、そこから吹き出している。
ゴオオオオと、地鳴りのような音が響く。
昨日の影が、いや、もっと大きな何かが近くにいる。苦しんでいる。暴れている。
「……助けて」
風の中に声が混じった気がした。
悲痛な叫び。
子供の泣き声のような、細くて高い声。
「……聞こえる?」
こよいは聞いた。
「俺には聞こえない」
あさひは即答した。
「だが、お前には聞こえるんだろう」
「うん。……泣いてる」
その泣き声は、風に削られて細く途切れ途切れだった。こよいは拳を握り、痛みに負けないと自分に言い聞かせた。
「なら、そっちだ」
あさひは迷わず歩き出した。
「泣き声のする方へ行こう。……神様を泣かせる奴は、許しておけねえ」
その背中は、風に削られても折れない岩のように見えた。
こよいはその背中を追いながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。怖さはまだある。だが、あさひが前にいるだけで、恐れは歩く力に変わる。
巾着の中から微かな風が漏れ、こよいの手のひらを冷たく撫でた。まるで「行こう」と言っているようだった。
こよいは小さく頷き、風に答えた。しおりの笑顔が一瞬浮かぶ。「届ける」と言ったあの約束が、今も胸の中で光っている。
その言葉が、こよいの胸を温かくした。
あさひは乱暴だけど、優しい。
二人はさらに山を登った。
風が強くなる。立っていられないほどの暴風。小石が飛んでくる。
こよいはあさひの背中に隠れるようにして進んだ。山頂の空が、黒く渦を巻いているのが見えた。
空気が重くなり、耳の奥が痛む。髪が静電気で立ち、肌がざらざらする。風の中に、機械が唸るような低い音が混じった。あの山頂に、確かに何かが動いている。
足元の土が揺れる。風の力で、地面そのものが呼吸しているように感じられた。こよいは唇を噛み、足を止めない。山頂へ近づくほど、風の泣き声が大きくなっていった。
泣き声は、もう耳ではなく胸で聞こえる。鼓動と重なり、こよいの体を内側から押してくる。助けなければという気持ちが、足の痛みを消していった。
あさひの背中が少しだけ振り返り、目が合う。言葉はないが、「行けるか」と問われている気がした。こよいは頷き、再び前を向いた。
風が髪を引き、こよいはそれに従うように歩いた。
足元の小石が鳴り、山が応えるように低く唸った。
冷たい風が頬を刺し、涙が滲んだ。
視界が滲むが、足は止まらない。山が近づいている。
風の匂いが濃くなった。
その先に、何かがある。
風の神と、それを歪める者たちが。
決着の時は近い。




