第042話 風切り
銀色の閃光が、闇を切り裂いた。
崩れかけた家の中に溜まっていた黒い空気が、光に裂けて薄く散る。こよいは床に這いつくばったまま、息を呑んだ。鼻に土埃の匂いが残り、喉の奥がひりつく。
ヒュン!
空気を断つ鋭い音と共に、こよいに迫っていた黒い影が両断された。
影は悲鳴のような音を上げて霧散し、壁にぶつかって消えた。板に残った砂がざらりと落ち、家の奥に溜まっていた冷たい空気が震える。
「伏せてろ!」
怒鳴り声。
入り口に、あさひが立っていた。
抜身の剣を構え、肩で息をしている。逆光で表情は見えないが、その全身から張り詰めた殺気が放たれているのが分かった。
風に煽られた旅布が背中で揺れ、髪の先が鋭く揺れた。あさひの姿は闇の中で一本の刃のように見えた。
「あさひ……!」
声が裏返りそうになる。安心と驚きが一緒に込み上げ、喉が熱くなった。
「立つな! まだいるぞ!」
あさひの警告通り、消えたはずの影が、再び部屋の隅で凝固し始めた。
黒い霧が集まり、より大きく、より凶悪な形へと変化していく。今度は、巨大な狼のような姿だ。輪郭が揺れ、牙の部分だけが白く浮かび上がっている。
『……ハイジョ……』
影が唸り声を上げ、あさひに飛びかかった。
速い。風そのもののような速さだ。床が削られ、砂と木屑が舞う。
しかし、あさひは動じなかった。
剣を正眼に構え、迫り来る牙(風の刃)を紙一重でかわす。風圧が袖を引き裂き、耳の奥に鋭い痛みが走った。こよいは咄嗟に顔を伏せ、髪の間に砂が入り込む。
あさひの足が、床を滑った。
左へ、右へ。狼の影に追われながらも、剣先は揺れない。冷たい銀が、影の中心を見据えている。
そして、流れるような動作で懐から一枚の紙を取り出した。
「散れ!」
お札だ。
あさひがそれを投げると、お札は空中で弾け、青白い光を放った。
光に触れた影が、ジュッという音を立てて縮む。焦げた油のような匂いが広がり、黒い霧が悲鳴を上げる。
「今だ!」
あさひが踏み込んだ。
渾身の一撃。剣が影の核らしき部分を貫く。
ギャアアアア!
断末魔の叫びと共に、影は完全に霧散した。
風が止んだ。
静寂が戻ってくる。耳鳴りのような音だけが、しばらく頭の中で残った。
外の風の唸りが遠ざかり、家の軋みが小さくなる。砂が落ちる音が、やけに大きく感じた。こよいは胸に手を当て、鼓動が少しずつ落ち着いていくのを確かめた。
あさひは剣を振って血糊(血ではないが、何か粘着質なものが付いていたようだ)を払い、カチンと鞘に納めた。
「……たく、世話が焼ける」
あさひはこよいの方へ歩み寄ってきた。
その顔には、呆れと、隠しきれない安堵が浮かんでいた。頬に小さな擦り傷があり、汗が混じって光る。
「怪我はないか」
「……うん。大丈夫」
こよいは、へなへなと座り込んだまま頷いた。
足が震えて立たなかった。指先に、風に切られた小さな傷がいくつもできている。痛みよりも、助かったという感覚の方が大きい。
唇の端に砂が残り、舌で舐めると塩辛い味がした。息を吐くと、胸の中に溜まっていた恐怖が少しずつ外へ出ていく。
「なんで、ここが……」
「風の音が変わったからな」
あさひは、部屋の隅に荷物を置いた。
「嫌な予感がして戻ってきたんだ。……正解だったな」
「ごめんなさい。……あさひを見失って、怖くて」
「謝るな。俺も先行しすぎた」
あさひは囲炉裏の跡を調べ、手早く薪を組んだ。
火打ち石を鳴らすと、すぐに火がついた。パチパチと燃える炎が、冷え切った部屋を温めていく。煙の匂いが鼻を満たし、心が少し落ち着く。
炎が揺れるたび、壁の影が伸び縮みした。こよいはその影に目を奪われ、無意識に巾着を握り直した。布の感触が指先を落ち着かせる。
「……あれは、何?」
こよいは火のそばに寄って聞いた。
炎の揺れが、壁に影を落とす。その影が、先ほどの黒い影に重なり、こよいは思わず肩を竦めた。
「風の淀みだ」
あさひは言った。
「神の成れの果てか、あるいは神になり損ねたものか。……この辺りの風は狂ってる。何かが、風の流れを堰き止めているんだ」
窓の隙間から、山の方角に赤い光が瞬いた。こよいはそれを見て、胸の奥がひやりとする。あの光が風を縛っているのだと直感した。
「……観測者?」
「たぶんな。奴らは神の力を利用しようとする。その過程で生まれた歪みが、ああいう怪物になる」
あさひは、こよいの腰の巾着を見た。
空っぽの巾着が、火の光に照らされて淡く揺れる。
「お前、集め手だよな」
「うん」
「なら、次はこいつを拾うことになるかもしれない」
「……え?」
「あの風だ。あれを鎮めて、形を与えれば、神に戻るかもしれない」
こよいは外の闇を見た。
風の音がまだ遠くで響いている。あの恐ろしい影。あれが、神様?
信じられなかった。あんなに凶暴で、冷たいものが。
「……できるかな」
「お前ならできるだろ。……祠も水路も、届けたんだろ?」
あさひは、そっけなく言った。でも、その言葉には信頼があった。こよいの力を、認めてくれている。
あさひは懐から残ったお札を数枚取り出し、手の中で揃えた。紙の端は焦げ、昨日の戦いの痕が残っている。
「次は、これで道を開ける。お前はその間に入れ」
短い言葉の中に、計算と覚悟が詰まっていた。こよいは頷き、胸の中で同じ決意を固める。
こよいは巾着を握りしめた。
空の巾着。でも、次は空じゃなくなるかもしれない。
あの風を、受け入れることができるだろうか。
「……うん。やってみる」
「そうか」
あさひは干し肉を齧った。
「食え。腹が減っては戦ができん」
こよいも、干し餅を取り出した。
硬い餅を齧る。素朴な甘みが口に広がる。生きている味がした。
火が、パチパチと燃えていた。
あさひがいる。それだけで、夜の怖さが半分になった気がした。
外の風はまだ強く、時折家を揺らしていたが、こよいはもう震えてはいなかった。
こよいは水筒の栓をそっと開け、手に水を流した。冷たい水が傷口に染み、赤い筋が流れて消える。布を裂いて指に巻くと、少しだけ痛みが遠のいた。
あさひは戸の前に立ち、耳を澄ませた。風が柱を鳴らし、屋根の隙間を通り抜けていく。彼は短く頷くと、戸の縁に小さな札を貼り、最後に剣の柄を確かめた。
「寝れるなら、少しでも寝ろ」
その声はぶっきらぼうだが、どこか柔らかかった。こよいは頷き、火のそばで膝を抱える。目を閉じると、黒い影と銀の閃光が瞼の裏に浮かぶ。それでも、火の音が静かに揺れて、心を押し留めた。
煙の匂いが髪に染み、手のひらに残った風の冷たさと混じり合う。ここが今の居場所だと、体が静かに覚えていく。
火の揺らぎを見つめていると、風の音が少しずつ遠のいた気がした。泣き声はまだ聞こえる。けれど、その声は夜の闇の中で細く光る糸のようだった。こよいはその糸を見失わないように、そっと息を整える。
明日、山へ向かう。
夜の風は冷たいが、胸の灯は消えない。こよいはその灯を握りしめるように、指先を軽く握った。
目を閉じると、遠くの風の匂いが少しだけ近づいた気がした。
それは小さな合図だった。
夜は長いが、迷いはなかった。
火は静かに揺れた。
風の泣き声の方へ。そう心の中で決めた。




