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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第2章 鈴の導き

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第042話 風切り

挿絵(By みてみん)


銀色の閃光(せんこう)が、闇を切り裂いた。

 崩れかけた家の中に溜まっていた黒い空気が、光に裂けて薄く散る。こよいは床に這いつくばったまま、息を呑んだ。鼻に土埃の匂いが残り、喉の奥がひりつく。


 ヒュン!


 空気を断つ鋭い音と共に、こよいに迫っていた黒い影が両断(りょうだん)された。

 影は悲鳴のような音を上げて霧散(むさん)し、壁にぶつかって消えた。板に残った砂がざらりと落ち、家の奥に溜まっていた冷たい空気が震える。


 「伏せてろ!」


 怒鳴り声。

 入り口に、あさひが立っていた。

 抜身の剣を構え、肩で息をしている。逆光(ぎゃっこう)で表情は見えないが、その全身から張り詰めた殺気が放たれているのが分かった。

 風に(あお)られた旅布(たびぬの)が背中で揺れ、髪の先が鋭く揺れた。あさひの姿は闇の中で一本の刃のように見えた。


 「あさひ……!」


 声が裏返りそうになる。安心と驚きが一緒に込み上げ、喉が熱くなった。


 「立つな! まだいるぞ!」


 あさひの警告通り、消えたはずの影が、再び部屋の隅で凝固(ぎょうこ)し始めた。

 黒い霧が集まり、より大きく、より凶悪な形へと変化していく。今度は、巨大な(おおかみ)のような姿だ。輪郭(りんかく)が揺れ、牙の部分だけが白く浮かび上がっている。


 『……ハイジョ……』


 影が唸り声を上げ、あさひに飛びかかった。

 速い。風そのもののような速さだ。床が削られ、砂と木屑(きくず)が舞う。


 しかし、あさひは動じなかった。

 剣を正眼(せいがん)に構え、迫り来る牙(風の刃)を紙一重でかわす。風圧が袖を引き裂き、耳の奥に鋭い痛みが走った。こよいは咄嗟に顔を伏せ、髪の間に砂が入り込む。


 あさひの足が、床を滑った。

 左へ、右へ。(おおかみ)の影に追われながらも、剣先は揺れない。冷たい銀が、影の中心を見据えている。


 そして、流れるような動作で懐から一枚の紙を取り出した。


 「散れ!」


 お札だ。

 あさひがそれを投げると、お札は空中で弾け、青白い光を放った。

 光に触れた影が、ジュッという音を立てて縮む。焦げた油のような匂いが広がり、黒い霧が悲鳴を上げる。


 「今だ!」


 あさひが踏み込んだ。

 渾身の一撃。剣が影の(かく)らしき部分を貫く。


 ギャアアアア!


 断末魔(だんまつま)の叫びと共に、影は完全に霧散(むさん)した。

 風が止んだ。

 静寂が戻ってくる。耳鳴りのような音だけが、しばらく頭の中で残った。

 外の風の(うな)りが遠ざかり、家の(きし)みが小さくなる。砂が落ちる音が、やけに大きく感じた。こよいは胸に手を当て、鼓動が少しずつ落ち着いていくのを確かめた。


 あさひは剣を振って血糊(ちのり)(血ではないが、何か粘着質なものが付いていたようだ)を払い、カチンと(さや)に納めた。


 「……たく、世話が焼ける」


 あさひはこよいの方へ歩み寄ってきた。

 その顔には、呆れと、隠しきれない安堵(あんど)が浮かんでいた。頬に小さな擦り傷があり、汗が混じって光る。


 「怪我はないか」


 「……うん。大丈夫」


 こよいは、へなへなと座り込んだまま頷いた。

 足が震えて立たなかった。指先に、風に切られた小さな傷がいくつもできている。痛みよりも、助かったという感覚の方が大きい。

 唇の端に砂が残り、舌で舐めると塩辛い味がした。息を吐くと、胸の中に溜まっていた恐怖が少しずつ外へ出ていく。


 「なんで、ここが……」


 「風の音が変わったからな」


 あさひは、部屋の隅に荷物を置いた。


 「嫌な予感がして戻ってきたんだ。……正解だったな」


 「ごめんなさい。……あさひを見失って、怖くて」


 「謝るな。俺も先行しすぎた」


 あさひは囲炉裏(いろり)の跡を調べ、手早く(まき)を組んだ。

 火打ち石を鳴らすと、すぐに火がついた。パチパチと燃える炎が、冷え切った部屋を温めていく。煙の匂いが鼻を満たし、心が少し落ち着く。

 炎が揺れるたび、壁の影が伸び縮みした。こよいはその影に目を奪われ、無意識に巾着(きんちゃく)を握り直した。布の感触が指先を落ち着かせる。


 「……あれは、何?」


 こよいは火のそばに寄って聞いた。

 炎の揺れが、壁に影を落とす。その影が、先ほどの黒い影に重なり、こよいは思わず肩を竦めた。


 「風の(よど)みだ」


 あさひは言った。


 「神の成れの果てか、あるいは神になり損ねたものか。……この辺りの風は狂ってる。何かが、風の流れを()き止めているんだ」


 窓の隙間から、山の方角に赤い光が瞬いた。こよいはそれを見て、胸の奥がひやりとする。あの光が風を縛っているのだと直感した。


 「……観測者(かんそくしゃ)?」


 「たぶんな。奴らは神の力を利用しようとする。その過程で生まれた歪みが、ああいう怪物(かいぶつ)になる」


 あさひは、こよいの腰の巾着(きんちゃく)を見た。

 空っぽの巾着(きんちゃく)が、火の光に照らされて淡く揺れる。


 「お前、集め手(あつめて)だよな」


 「うん」


 「なら、次はこいつを拾うことになるかもしれない」


 「……え?」


 「あの風だ。あれを(しず)めて、形を与えれば、神に戻るかもしれない」


 こよいは外の闇を見た。

 風の音がまだ遠くで響いている。あの恐ろしい影。あれが、神様?

 信じられなかった。あんなに凶暴で、冷たいものが。


 「……できるかな」


 「お前ならできるだろ。……(ほこら)水路(すいろ)も、届けたんだろ?」


 あさひは、そっけなく言った。でも、その言葉には信頼があった。こよいの力を、認めてくれている。

 あさひは懐から残ったお札を数枚取り出し、手の中で揃えた。紙の端は焦げ、昨日の戦いの痕が残っている。


 「次は、これで道を開ける。お前はその間に入れ」


 短い言葉の中に、計算と覚悟(かくご)が詰まっていた。こよいは頷き、胸の中で同じ決意を固める。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握りしめた。

 空の巾着(きんちゃく)。でも、次は空じゃなくなるかもしれない。

 あの風を、受け入れることができるだろうか。


 「……うん。やってみる」


 「そうか」


 あさひは干し肉を(かじ)った。


 「食え。腹が減っては戦ができん」


 こよいも、干し餅(ほしもち)を取り出した。

 硬い餅を齧る。素朴な甘みが口に広がる。生きている味がした。


 火が、パチパチと燃えていた。

 あさひがいる。それだけで、夜の怖さが半分になった気がした。

 外の風はまだ強く、時折家を揺らしていたが、こよいはもう震えてはいなかった。


 こよいは水筒の栓をそっと開け、手に水を流した。冷たい水が傷口に染み、赤い筋が流れて消える。布を裂いて指に巻くと、少しだけ痛みが遠のいた。


 あさひは戸の前に立ち、耳を澄ませた。風が柱を鳴らし、屋根の隙間を通り抜けていく。彼は短く頷くと、戸の縁に小さな札を貼り、最後に剣の(つか)を確かめた。


 「寝れるなら、少しでも寝ろ」


 その声はぶっきらぼうだが、どこか柔らかかった。こよいは頷き、火のそばで膝を抱える。目を閉じると、黒い影と銀の閃光(せんこう)が瞼の裏に浮かぶ。それでも、火の音が静かに揺れて、心を押し留めた。


 煙の匂いが髪に染み、手のひらに残った風の冷たさと混じり合う。ここが今の居場所だと、体が静かに覚えていく。


 火の揺らぎを見つめていると、風の音が少しずつ遠のいた気がした。泣き声はまだ聞こえる。けれど、その声は夜の闇の中で細く光る糸のようだった。こよいはその糸を見失わないように、そっと息を整える。


 明日、山へ向かう。

 夜の風は冷たいが、胸の(ともしび)は消えない。こよいはその(ともしび)を握りしめるように、指先を軽く握った。

 目を閉じると、遠くの風の匂いが少しだけ近づいた気がした。

 それは小さな合図だった。

 夜は長いが、迷いはなかった。

 火は静かに揺れた。

 風の泣き声の方へ。そう心の中で決めた。

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