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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第2章 鈴の導き

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第041話 西の廃村

挿絵(By みてみん)


西へ向かう街道は、どこまでも続く荒野(こうや)だった。

 かつては森だった場所が、何かの力で焼き払われたかのように禿げ上がり、赤茶色の岩肌が肋骨(ろっこつ)のように露出(ろしゅつ)している。風が強い。常に西から、轟音(ごうおん)を伴って吹き付けてくる風は砂礫(されき)を含んで肌を打ち、目を開けていることすら困難にさせる。


 「……ううっ」


 こよいは笠を深く被り、身を屈めるようにして歩いた。足元の草鞋(わらじ)はすでに半分ほど擦り切れ、小石が足裏に食い込む感覚がある。痛い。重い。苦しい。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


 あさひはずっと先を歩いていた。

 彼は風をものともせず、背筋を伸ばして歩いている。その背中が砂塵(さじん)の向こうにかすんで見える。遠い。追いつこうとしても、風が壁となって押し戻してくる。視界が揺れて、彼の姿が陽炎(かげろう)みたいに(にじ)む。


 「……待って」


 声は風にかき消された。届かない。

 一人旅ではないはずなのに、圧倒的な孤独感がこよいを襲う。巾着(きんちゃく)の中は空っぽだ。誰もいない。温もりもない。ただ、自分の心臓の音だけが、耳の奥でうるさく響いている。


 日が傾き始め、空がどす黒い紫色に染まり始めた頃、前方に影が見えた。

 集落だ。山の斜面にへばりつくようにして、数軒の家が建っている。


 「……あそこで、休めるかな」


 こよいは希望にすがるように足を速めた。

 屋根がある場所で眠りたい。風の音を聞かずに眠りたい。その一心だった。


 しかし、近づくにつれて、その希望は冷たい不安へと変わっていった。

 家々は崩れかけていた。屋根は落ち、壁には穴が開き、庭は雑草に埋もれている。人の気配がない。煙突から煙も上がっていない。廃村だった。


 門の横に、木で作られた小さな玩具が転がっていた。風にころころと転がされ、砂をかぶっている。干からびた蔓草(つるくさ)が絡みつき、長い時間ここに人がいないことを語っていた。


 井戸の縁は欠け、(おけ)の縄は途中で切れている。誰かが慌てて去ったような、そんな空気が残っていた。風が揺らす枯れた洗濯物の端が、パタパタと乾いた音を鳴らす。


 「……誰も、いないの?」


 村の入り口に立つと、風の音が変わった。

 ヒュオオオオ、という低い唸り声(うなりごえ)が家々の隙間を抜けて響いている。まるで村全体が巨大な笛になったかのような、不気味な音色。


 あさひの姿が見えなかった。

 彼は先に村に入ったのだろうか。それとも、村を通り過ぎてしまったのだろうか。


 「あさひ!」


 こよいは叫んだ。

 返事はない。あるのは、板戸が風に叩かれてバタン、バタンと鳴る音だけ。


 村の中央に、小さな(ほこら)が倒れていた。屋根は割れ、紙垂(しで)は風でちぎれている。こよいは一瞬だけ手を合わせた。すると、足元の砂に細い足跡が見えた。長い足跡。あさひのものだろうか。風が吹き、すぐにその跡は崩れていった。とりあえず、雨風を(しの)げそうな家を探すことにした。

 一番奥にある、比較的大きな家。門は倒れていたが、母屋はまだ形を留めている。


 「ごめんください……」


 恐る恐る中に入る。

 土間には(ほこり)が分厚く積もっていた。足跡をつけるのが躊躇(ためら)われるほどだ。囲炉裏(いろり)の跡がある。灰は冷え切って、固まっている。何年も火が入れられていない証拠だ。


 壁際には、割れた茶碗と木の(さじ)が残っていた。朽ちた棚の上に、誰かの袖が引っかかっている。触れた瞬間、布が粉になって崩れ落ちた。時間がここだけ止まっているようで、こよいは息を呑んだ。


 座敷の畳は半分ほどめくれ、床板が見えていた。部屋の隅には、色の()せたお守りが落ちている。拾い上げると、風の匂いがする。ここにいた人々も、同じ風に(おび)えていたのだろうか。


 隣の間に続く(ふすま)は半分開いていた。中には倒れた箪笥(たんす)があり、薄い布が床に散らばっている。こよいが足を踏み入れると、床がギシリと鳴った。静けさがその音を大きくした。


 荷物を下ろした。

 肩が軽くなると同時に、ドッと疲れが押し寄せてきた。へたり込むように床に座る。冷たい。板張りの床から冷気が()い上がってくる。


 壁の隙間から、赤い夕日が細い線になって差し込んでいた。(ほこり)の粒が光の中でゆっくり舞い、空気が古い紙の匂いを帯びる。こよいは荷袋から上着を取り出して肩に掛けた。布の温もりが少しだけ心を落ち着かせる。


 戸の近くに倒れていた木片を拾い、引き戸の前に置く。ほんの気休めだが、何もしないよりはましだった。風が鳴るたび、木片がわずかに震えた。


 窓の隙間から外を覗くと、村の道が薄い闇に沈んでいた。灯りは一つもない。風だけが通り抜け、草を倒し、また起こす。その動きが、何かの呼吸のように見えた。


 「……寒い」


 こよいは両手を擦り合わせた。指先が冷え、感覚が鈍っていく。巾着(きんちゃく)を胸の前で抱えると、布の温もりがわずかに戻った。

 耳を澄ませると、風の中に金属が擦れるような音が混じる。遠くで誰かが歩いているのか、それとも風が戸を揺らしているだけなのか。判断できない不安が、胸の内側でゆっくり膨らんだ。

 動くと音を立ててしまう気がして、こよいは息を潜めた。


 こよいは膝を抱えた。

 一人は嫌だ。あさひ、どこに行ったの。神様、どこにいるの。


 土埃の匂いが鼻の奥に残り、喉が乾いた。水筒を開けたいが、音が怖くて指が止まる。

 巾着(きんちゃく)の中は空なのに、かすかな温もりが残っている気がした。

 喉が鳴る音さえ大きく感じる。

 胸の鼓動まで、風に混ざって響いた。

 こよいは唇を噛み、息を殺した。

 指先が震えた。


 静かすぎる。外の風音が屋根の隙間をすり抜け、部屋の中を細い笛のように鳴らしている。こよいは息を整え、耳を澄ませた。風の中に、人の声が混じっていないか探した。


 その時。


 ズズッ。


 音がした。

 家の奥。暗がりの中から。何かを引きずるような、重く、湿った音。


 「……誰?」


 こよいは息を呑んだ。

 風の音ではない。板戸の音でもない。生き物の気配だ。


 ズズッ、ズズッ。


 音は近づいてくる。

 ゆっくりと。確実に。

 暗闇の奥から、何かがこちらを(うかが)っている。


 こよいは息を殺し、耳を澄ませた。板の(きし)む音ではない。布が擦れる音でもない。湿った土が引きずられるような、不快な音だ。家の空気が一気に冷え、皮膚の上を細い風が()った。


 こよいは短剣を握りしめた。

 (おさ)がくれた護身用の短剣。手が震えて、(さや)から抜けない。


 「……来るな」


 声が震える。


 闇の中から影が現れた。

 人ではない。獣でもない。不定形の黒い(もや)のような塊。

 風が(うず)を巻き、(ほこり)(ちり)を集めて形を作っているような、実体のない怪物(かいぶつ)


 「……何、あれ」


 影には目がなかった。

 けれど視線を感じた。全身を舐め回すような、冷たく乾いた視線。獲物を見つけた喜びではなく、ただ存在するものを排除しようとする、無機質な殺意。


 『……キエロ』


 声が聞こえた気がした。耳ではなく、脳に直接響くような不快なノイズ。


 『……ココハ、カゼノ、ナカ』


 『……イブツハ、ハイジョスル』


 風の神?

 いいや、違う。これは神様じゃない。

 神様が狂って、壊れて、ただの現象に成り果てた姿だ。


 「……嫌だ」


 こよいは後ずさった。逃げ場はない。後ろは壁だ。

 影が鎌のように鋭い風の刃を振り上げた。


 「……助けて!」


 叫んだ瞬間、引き戸が弾け飛んだ。

 突風が部屋の中に吹き荒れた。しかしそれは、影が放った風ではなかった。

 外から飛び込んできた、銀色の風だった。

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