第040話 風の噂
街道を歩いて三日。
景色が変わった。豊かな森は姿を消し、乾いた荒れ地が目立つようになってきた。岩肌が露出し、低い灌木が点在しているだけだ。足元の土はひび割れ、踏みしめるたびに粉が舞う。
風が強い。
常に西から、強い風が吹き付けてくる。砂埃が舞い上がり、目を開けているのがやっとだ。口の中がじゃりじゃりする。舌に土が絡みつき、水を飲んでもすぐに乾く。
こよいは布で口元を覆った。布の内側に砂が溜まり、吐息が熱くこもる。それでも、覆わなければ息が続かない。指先に小さな切り傷が増え、爪の間には土が入り込んで黒くなる。唇が裂け、舌先に微かな血の味がした。
「……すごい風」
こよいは袖で顔を覆った。向かい風。歩くのを拒むような、押し返す力。歩幅が縮み、呼吸が浅くなる。
「……帰れ」
風の中に声が混じっている気がした。
人の声ではない。風そのものの音だ。ヒュオオオ、という音が、言葉のように聞こえる。拒絶の声。
「……帰らない」
こよいは風に向かって言った。
進む。ここで戻ったら、何も始まらない。あさひに笑われる。それ以上に、しおりの願いを裏切ることになる。
風は答えない。ただ、髪を引きちぎるように吹きつける。こよいは足を前に出し、体重を低くした。踏みしめた土が、風で削られていく。まるで自分の足元ごと奪われるような感覚。
風に逆らうたび、肩紐が食い込み、背中の荷がずれていく。こよいは何度も荷を持ち直した。地図は汗で湿り、紙の端が波打っている。指先で紙を押さえると、風が怒ったように紙を引き剥がそうとした。
「……落ち着いて」
自分に言い聞かせる。風と喧嘩しても勝てない。呼吸を合わせ、風の癖を読む。強くなる時、弱くなる時。その間に一歩を差し込む。
荒れ地の中に、折れた道標が倒れていた。柱は砂に半ば埋もれ、文字はほとんど読めない。こよいは指でなぞり、「西」という字だけを確認した。目印があるだけで、進む方向が確かになる。
遠くで、空が白く光った。雷の前触れだ。風が強くなるたび、巾着が小さく震えた。まだ空のはずの袋が、何かに引かれているような感覚。こよいはその震えを握りしめ、歩みを止めなかった。
岩陰に身を寄せ、短く息を整える。草鞋を脱ぐと、足の裏に赤い擦り傷が浮いていた。長にもらった薬草を指に取り、傷口に押し当てる。じん、と染みる痛みに眉をひそめたが、痛みは生きている証だった。
こよいは布を裂き、足に巻き付けた。粗い布が肌に当たり、少しだけ安心する。風は休むことなく吹いている。岩陰にいても、砂は細かく舞い込み、髪や眉に溜まっていく。指で払うと、砂は指先にざらりと残った。
少し離れた場所で、小さな砂旋風が立った。細い柱が踊るように回り、やがて溶ける。風がここを支配している証だ。こよいは胸の奥で、風に向かって「負けない」と呟いた。
日差しの角度を確かめ、方角を見直す。西へ。太陽は背中の左。進む方向は合っている。自分で決めて進む、それだけで心が整う。
道の脇に石積みがあった。
崩れかけた古い道祖神。風化して顔も分からない。ただの石の塊に見える。
かつては旅人の安全を見守っていたのだろう。今は誰にも見向きもされず、風に削られている。
こよいは足を止めた。
石積みの前に立つ。不思議なことに、その前だけ風が避けて通っている。音がすっと薄くなり、静かな空間が生まれた。
「……あなたは、誰?」
問いかけた。返事はない。でも、気配がある。眠っているような、微かな気配。死んではいない。でも、生きてはいない。
巾着が震えた。共鳴している。空っぽの巾着が、石の記憶を吸い取ろうとしている。
「……神様?」
違う。
これは神様じゃない。神様が残した「痕跡」だ。かつてここにいた神の残り香。抜け殻。
こよいは石に手を触れた。
冷たい。ざらざらしている。でも、奥の方に微かな熱がある。祈りの熱。誰かの手が、長い時間ここに触れていた証だ。
こよいは一瞬、目を閉じた。長が昔話のように語った声が蘇る。「風の神は、空を渡る旅人の守り手だった。怒ると嵐になり、泣くと雨になる」。その言葉の意味が、今なら少し分かる気がする。
「……寂しいね」
忘れ去られ、形を失い、それでもここに立ち続けている。待っているのだ。誰かが気づいてくれるのを。でも、もう遅いのかもしれない。
「……ぼくは、行かないと」
こよいは手を離した。
連れてはいけない。これは、ここに留まるべきものだ。今の巾着は、まだ空のままでいたい。次の神を、しっかりと受け入れるために。
「……でも、忘れないよ」
風が石の隙間を抜け、短い笛のような音を鳴らした。こよいはその音に耳を傾ける。怒っているのか、泣いているのか、まだ分からない。ただ、風の向こうに何かがいることだけは確かだった。
一礼して歩き出した。
風が、また強く吹いた。今度は背中を押すような風。
「……行け」
そう言われた気がした。道祖神が、最後の力で背中を押してくれたのかもしれない。
西へ。
さらに西へ。
風の神がいる場所へ。
荒れ地には、焼け焦げた家の柱が倒れていた。黒い木片が砂の中から突き出し、井戸の枠だけが残っている。昔は人が暮らしていたのだろう。今は風が支配する場所だ。
柱の陰に、割れた風鈴が転がっていた。金属が擦れるかすかな音が、風の合間に鳴る。こよいはそれを拾い上げ、そっと元の場所に置いた。風の音だけが残り、空気が少しだけ澄んだ気がした。
空を見上げると、雲の裂け目から短い青が覗いた。すぐに砂色の雲が覆い隠す。それでも、ほんの一瞬の青は心に残った。風の向こうにも、まだ澄んだ空がある。
こよいはその青を胸にしまい、また歩き出す。足の痛みよりも、進む理由の方が強かった。
背中に流れた汗が冷え、鳥肌が立つ。こよいは肩をすくめ、息を整えた。
冷えた風が頬を切り、目尻が少し痛んだ。こよいは手の甲で目を拭い、歩幅を戻した。
こよいは干し餅をかじった。口の中で粉が舞い、喉に張り付く。水をひと口流し込み、ようやく飲み込んだ。食べることは生きることだと、あさひが言いそうなことを思う。
歯に砂が当たり、こよいは眉をひそめた。それでも噛み続ける。
遠くで雷鳴が聞こえた。
ゴロゴロと地響きのような音。空が暗くなる。黒い雲が山脈を覆い尽くしている。嵐が来る。
空気に甘い金属の匂いが混じった。髪の先がわずかに立ち、腕の産毛が逆立つ。雷が近づいている証だ。こよいは肩をすくめ、風に体を預けるように進んだ。
遠い空の底で、雲が渦を巻くのが見えた。あの渦の中心に、誰かの泣き声が沈んでいる気がした。こよいは唇を噛み、足を止めなかった。
「……来なさい」
誰かの声がした。
風に乗って遠くから届く声。強く、激しい声。でも、どこか泣いているような声。
こよいは空を見上げた。
黒い雲が渦を巻いている。あの中にいる。次の神が待っている。
風は、悲鳴のようにも聞こえた。怒りと泣き声が混じり合い、遠い空から落ちてくる。こよいの胸に、かすかな恐れが刺さる。それでも、足は止まらなかった。
「……行くよ」
こよいは走り出した。嵐の中へ。新しい物語の中へ。
旅は、まだ始まったばかりだ。
風が背中を押し、砂が靴底で鳴った。
遠くで雷がまた鳴った。
風は止まらない。




