第039話 境界の先へ
里を出たのは、昼過ぎだった。
日差しが真上から照りつけている。影が短い。こよいの影は足元に小さくまとまっている。
長は見送りに来なかった。「振り返るな」と言われたからだ。振り返れば未練が残る。ここでの安穏な生活に心が引き戻されてしまう。だから、こよいも振り返らなかった。
背中で、里の気配が遠ざかっていくのを感じただけだ。井戸の音、子供たちの声、煮炊きの匂い。それらが一つずつ、風に溶けて消えていく。
門番が黙って頭を下げた。こよいも頭を下げ返した。
言葉はいらなかった。門番の目は、「生きて帰れよ」と言っていた。
背負い袋の重みが肩にずしりと落ちた。乾燥した薬草の匂いが鼻をくすぐる。水筒は冷たく、短剣は腰で小さく揺れている。いつもより重いはずなのに、足は前に出た。迷いがない分だけ、荷の重さが軽く感じられる。
石畳の道が終わる。ここから先は土の道。西へ続く長い街道だ。雑草が生い茂り、轍も薄い。ここを通る者はもうほとんどいないのだろう。草の湿り気が草鞋にまとわりつき、足裏に冷たい感触が残る。
道端には境の里を示す小さな石が並んでいた。丸い石に白い布が結ばれ、風に細く揺れている。布の繊維が擦れる音が、最後の挨拶のように耳に残った。
「……行こう」
こよいは自分に言い聞かせた。草鞋の紐を締め直し、巾着の位置を整える。
第三境界。
水路の神を届けた場所。
そこを過ぎると、空気の色が変わった気がした。
軽い。
今まで張り詰めていた空気が、少しだけ緩んでいる。あるいは、さらに研ぎ澄まされているのか。
里を守っていた結界の外に出たのだ。ここからは守ってくれるものはない。自分自身の足で、立ち続けなければならない。
境界の印は古い石柱だった。苔が張り付き、角は丸く削れている。こよいがそのそばを通ると、皮膚の上を透明な膜が滑り落ちるような感覚があった。背中がひやりと粟立つ。
耳の奥で、ふっと音が消える。鳥の声が遠のき、風の音だけが残る。空の色が一段薄くなったように見えた。
その代わり、遠くの草の擦れる音まで拾えてしまう。集め手の力が、守りの外でより鋭くなるのだろうか。こよいは自分の両手を見つめ、深く息を吸った。
「……まだ、怖くない」
足元には、小さな石の輪があった。誰かが境界に祈りを置いた跡だろう。こよいは腰の袋から小さな干し葉を取り出し、輪の中央にそっと置いた。祈りの形は分からないが、通る者としての礼を置きたかった。
風が一瞬だけやわらぎ、こよいの頬を撫でた。それは「行け」と言う合図のようでもあった。
遠くで、かすかな水音がした気がした。耳が冴えているせいかもしれない。こよいは首を振り、足元を確かめる。乾いた土の上に、かつて川だったであろう浅い溝が走っていた。今は水はなく、白い砂が風に舞っているだけだった。
「……ここにも、神様がいたのかな」
小さく呟くと、巾着の口が一瞬だけ揺れた気がした。答えではなく、ただの風だ。それでも、こよいはその揺れを胸にしまう。
風が吹いた。
西からの風。乾いた土の匂いがする。知らない土地の匂い。遠くで雷の音がしたような気がした。
「……待ってる」
こよいは呟いた。誰かが待っている気がした。風の向こうで。雷鳴の彼方で。
チリン。
耳の奥で音がした。
鈴の音? いや、もっと高い、風が鳴るような音。ガラスが触れ合うような硬質な音。
巾着に手をやった。
空の巾着。でも、かすかに震えている。共鳴している。
「……呼んでる?」
新しい神様が、こよいを呼んでいるのだろうか。それとも、風に乗って運ばれてきた誰かの願いだろうか。
「……行くよ」
こよいは巾着を撫でた。布越しに伝わる温もりが、こよいの勇気を支えてくれる。
「……待ってて」
歩き出した。
足取りは軽い。昨日のような重さはない。迷いがないからだ。目的があるからだ。
こよいは一度だけ立ち止まり、地図を広げた。紙の端が風に煽られて震える。長の指がなぞった線を辿る。西へ、山を越え、谷を渡り、廃村へ。指先に、しおりの手の冷たさが重なる。
「……約束だから」
小さく呟くと、胸の奥が熱くなった。悲しみではない。決意の熱だ。
道は森を抜けて平野へと続いていた。
見渡す限りの草原。風に押される草が、波のように揺れる。その向こうに、青い山脈が見える。あの山の向こうに何があるのか。どんな神様が、どんな物語が待っているのか。
森を抜ける時、こよいは一度だけ立ち止まった。木の幹に古い印が刻まれているのを見つけたからだ。誰かが風除けに祈った痕だろうか。指でなぞると、樹皮がざらりと剥がれ、樹脂の香りが鼻に広がった。
樹脂の匂いに、祠の神の鈴の音が重なって聞こえた気がした。水路の神の冷たい気配、道標の神の静かな重さ。過去に届けた神々が、遠い場所から見守っているようだった。こよいは小さく頷き、また歩き出した。
草原には動物の気配が少なかった。小さな足跡はあるが、朝露の上で途切れている。空気が薄く、静かすぎる。観測者が動くと、こうも世界が沈黙するのだろうか。
こよいは喉の渇きを覚え、水筒の口を開けた。冷たい水が喉を滑り、体の芯まで染みていく。体温が戻る感覚に、ほっと息を吐いた。
水筒の金具が、かすかに鳴った。
「……しおり」
名前を口にすると、胸の奥に痛みと温かさが同時に広がる。あの日の手の温度、あの日の涙。こよいは一度だけ目を閉じ、約束をもう一度胸の中で結び直した。
日差しが少し傾き、草の影が長く伸び始めた。草原の波は金色に染まり、風がその表面をなぞる。足裏の擦れが痛む。だが、その痛みは進んでいる証だ。こよいは唇を噛み、肩紐を締め直した。
遠くの山脈が、夕方の光で紫色に沈んでいく。あの稜線の向こうに、風の神がいるのだろうか。こよいは歩幅を数え、呼吸の調子を整えた。一歩ごとに、世界が少しずつ広がっていく気がした。
怖くないと言えば嘘になる。観測者も、まだ追ってくるだろう。あさひもどこかを歩いているはずだが、姿は見えない。たった一人の旅。でも、一人じゃない。
届けた神々との絆がある。背中に、しおりの思いがある。長の教えがある。
こよいは前を向いた。
広い空。旅の空。どこまでも高く、蒼く、そして自由な空。
風が背中を軽く押し、髪の先が踊った。進む方向が間違っていないと、空そのものが答えているようだった。
胸の奥の灯が揺れたが、消える気配はない。こよいはその灯を頼りに、歩みを揃えた。
足音が草に吸われ、静かな鼓動だけが残る。それでも、進む音は確かだった。
「……神雧へ」
その言葉を口にすると、力が湧いてきた。
終わりの場所へ。始まりの場所へ。全ての神が集まる約束の地へ。
一歩、また一歩。
こよいは新しい世界へと踏み出していった。風が、こよいの髪を揺らした。それは祝福のようでもあり、警告のようでもあった。
風が小さく笑った気がした。
こよいは笑い返さず、ただ前を向いた。




