第038話 交わる道
里を発つ日の未明。まだ里が静まり返っている頃、小屋の戸が叩かれた。
コン、コン、という控えめだが力強い音。迷いのない打ち方だった。
「はい」
こよいが戸を開けると、そこに少年が立っていた。
背の高い少年。茶色の髪を短く切り揃え、鋭い目をしている。着古した野良着の上に革の胸当て、背中には布に包まれた長い棒のようなもの――剣だろうか。肩には擦り切れた旅布がかかっている。
洞窟で助けてくれた、あの少年だ。
「……傷は、もういいのか」
少年はぶっきらぼうに聞いた。目を合わせようとせず、少し横を向いている。けれど、声は低く、わずかに揺れていた。
「うん。もう痛くない」
こよいは答えた。
額の傷は塞がり、左腕の痛みも引いている。長の薬の匂いがまだ肌に残っていた。
「そうか」
少年はそれだけ言うと、黙り込んだ。
足元の小石を爪先で蹴り、口を結んだまま空を見ている。言いたいことがあるのに、言葉が出てこないようだった。
「……あの」
こよいは沈黙に耐えかねて切り出した。
額の傷がわずかに熱を帯びていた。洞窟の暗闇から引き出された時の、少年の力強い腕の感触が左肩に残っている。
「助けてくれて、ありがとう」
「礼はいい。言っただろ」
少年は顔をしかめる。
「俺は、たまたま通りかかっただけだ。……それに、奴らに狙われているのを見てしまったからな」
「……旅に出るの?」
こよいは少年の格好を見て聞いた。明らかに旅立ちの装いだ。足には新しい草鞋、腰には水筒と干し肉が入っていそうな小袋。長い棒の包みは、布越しに刃の冷たさが伝わってくる。
「ああ」
少年は頷いた。
「ここには長居しすぎた。それに、観測者たちが動き出した」
「……知ってるの?」
「奴らの動きを追うのが、俺の仕事みたいなもんだ」
少年は遠くを見た。西の方角。雲の流れの下に、目に見えない何かを数えているような眼差しだった。好奇心や冒険心ではない。もっと重い、復讐か、使命か、あるいは贖罪に似た色。
「お前も、行くだろ」
少年がこよいを見た。その視線は鋭いが、冷たくはなかった。
「うん。西へ行く」
「奇遇だな。俺も西だ」
少年は少しだけ口元を緩めた。笑った顔を、初めて見た気がした。
その瞬間、風が戸口をすり抜け、こよいの髪を揺らした。少年の肩の布がふわりと浮き、少年の背中の包みが触れ合って乾いた音を立てる。鉄の匂いが混じった。戦いの匂いだ。
こよいは彼の指先を見た。節のところに固い胼胝があり、何度も柄を握った痕が残っている。血の乾いた跡も、うっすらと爪の間に残っていた。少年はそれに気づいたのか、無言で手を握り直し、視線を外した。
「西には、大きな『歪み』がある。観測者たちが集まっている場所だ」
「……風の神がいる場所?」
「かもしれない。奴らは神を狙っているからな。神の力を利用して、世界を固定しようとしている」
少年は荷物を背負い直した。背中の剣がカチンと小さな音を立てる。
「この先、風が荒い。水場も少ない。道を外れるな。崩れた橋がある」
こよいは頷き、腰の水筒に手を添えた。乾いた土地の匂いが、もうここまで流れてきている気がする。
少年は袖を捲り、手首の古い傷を見た。白く硬い線が何本も走っている。こよいが視線を向けると、彼はその手を隠すように袖を戻した。
「……奴ら、しつこいんだ」
ぽつりと漏れた言葉に、こよいは頷くしかなかった。少年の背中には、言葉にできない過去が張り付いている。
「道の途中で、風が急に止まったら、足を止めろ」
「止まる?」
「風が止まるのは、何かが奪ってる時だ。……それは、人間には見えない」
少年は言い切ると、口を閉じた。説明を広げないのは、こよいを怖がらせないためかもしれない。
「一緒には行かないぞ」
「え」
「俺は俺の道を行く。お前はお前の道を行け」
少年はきっぱりと言った。
「お前と俺とでは、歩く速度が違う。……それに、俺と一緒にいると危険だ」
「危険?」
「俺は奴らに顔が割れている。一緒にいれば、お前まで巻き添えになる」
こよいは少年の顔を見つめた。
彼はこよいを避けているのではない。守ろうとしているのだ。遠ざけることで、守ろうとしている。
「……じゃあ、もし道で倒れていたら?」
こよいは冗談めかして言った。
「その時は、拾ってやる」
少年は肩をすくめた。口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……でも」
こよいは一歩近づいた。
「道は同じなんでしょ?」
「……ああ」
「なら、会えるよね。また」
少年は少し驚いた顔をした。
それから、フッと息を吐いた。
「……お前、意外と図太いな」
「そうかな」
「ああ。泣き虫かと思ったが、芯は強い」
少年は冷たく突き放した態度を崩した。声に、拒絶ではない、仲間意識のような響きが混じる。
「道は繋がっている」
少年は言った。
「困ったら、また会うこともあるだろう。……その時は、手を貸してやる」
「……うん」
こよいは頷いた。いつもより深い息が肺に満ちた。肩にのしかかっていたものが、少しだけ軽い。
こよいは荷袋から干し餅を取り出しかけて、ふと手を止めた。
「少し、食べる?」
「いい。歩きながらで慣れてる」
即答だった。だが、少年の腹が小さく鳴ったのを、こよいは聞き逃さなかった。
「……体、ちゃんと休めてる?」
「休める時に休む。お前もな」
短い言葉の奥に、妙な優しさがあった。こよいは餅を口に入れ、硬い甘みを噛み締める。
朝の光が戸口から差し込み、塵がきらりと舞った。遠くで鳥が一度だけ鳴き、すぐに静寂が戻る。別れの時間が近いと、空気が教えてくれている気がした。
少年は一歩踏み出したが、また足を止めた。巾着が視界に入ったのだろうか、視線がそこに落ちる。
「空か」
「うん。これから、また入れる」
「……お前の袋は、不思議だな」
短い言葉に、奇妙な敬意のようなものが滲んだ。こよいは巾着の口をきゅっと結び直す。布が指の間で柔らかく擦れた。
少年は踵を返した。
歩き出そうとして、ふと立ち止まる。
「名前」
背中を向けたまま言った。
「……え?」
「俺の名前だ。……あさひ、だ」
あさひ。
こよいは、その名前を口の中で繰り返した。朝日のような名前。暗い夜を切り裂き、新しい一日を告げる光。彼にぴったりだと思った。
「……ぼくは、こよい」
「知ってる」
あさひは振り返らずに手を挙げた。ひらりと振る。
「じゃあな、こよい。死ぬなよ」
そう言って、あさひは歩き出した。里の出口へ向かって。迷いのない、力強い足取りで。
背中が砂埃の向こうへ溶けていく。剣の包みが肩で揺れ、布がこすれる音だけが残った。こよいは胸の内で、もう一度だけ「……あさひ」と呟いた。名前を覚えることで、また会える気がした。
こよいは、その背中が見えなくなるまで見送った。
不思議と寂しくはなかった。また会える気がしたからだ。
道は繋がっている。神雧へ続く道の上で、きっとまた。
その言葉が胸の奥に残り、こよいは自然と背筋を伸ばした。
戸の外では風が少し強くなっていた。あさひが歩いていく方向へ、同じ風が流れている。
こよいは空の巾着を握りしめた。布地の温もりが掌に残る。
「……行こう」
こよいは小さく息を整えた。




