第037話 新たな風
目が覚めた時、鳥の声が聞こえた。
境の里の、穏やかな朝の音だった。チュン、チュンというスズメの声、屋根の上を跳ねる小さな爪の気配。遠くで響くカラスの鳴き声が、昨日の戦いと別れの記憶を薄い膜で包んでいく。
こよいは布団の中で、ゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井の木目。太い梁。囲炉裏の煤で黒く燻された天井だ。朝の光が格子の隙間から斜めに差し込み、埃の粒を浮かび上がらせている。
昨夜は、泥のように眠った。夢も見なかった。
体の奥にあった緊張が、ようやくほどけたのだ。三柱の神を届け終えた安堵が、背中から指先へと流れ、深い眠りの底に沈めてくれた。汗と土の匂いが混じった布団に頬を埋めると、もう一度だけ眠りたくなる。
体を起こすと、枕元に巾着があった。
空の巾着。
手に取ると、驚くほど軽い。羽毛のように軽く、中には空気しか入っていない。それでも、布地にはほのかな温もりが残っていた。水路の神の冷たい気配、道標の神の静かな重み、祠の神の鈴の音――それらが、布の織り目の奥にまだ息づいている気がする。
薄い布団を畳み、顔を洗うために桶の水を掬った。冷たい水が頬を刺し、眠気が一気に抜ける。水面に映る自分の顔は少し痩せて、目の奥だけが妙に強く光っていた。
「……おはよう」
こよいは、巾着に話しかけた。
返事はない。当たり前だ。中には誰もいないのだから。
けれど、窓の外から届く風が、かすかに答えたような気がした。北と西と東から、遠い場所の気配が返ってくる。水路、祠、道標。みんなそれぞれの場所で、新しい朝を迎えている。
「……元気かな」
こよいは巾着を胸に抱きしめた。
寂しさはある。しかし、それは鋭い痛みではなく、じんわりと広がる温かい切なさだった。役割を果たした充実感が、寂しさをやさしく包んでいる。
◇
身支度を整えて外に出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
霧が薄く漂い、家々の輪郭を柔らかくぼかしている。井戸の釣瓶が揺れる音、誰かが庭を掃く竹箒の音、味噌汁の匂い。里は穏やかで、平らな時間が流れていた。
こよいは長の家へ向かった。
これからのことを、話さなければならない。
長は庭で空を見上げていた。
背筋が伸びた静かな立ち姿。藍色の着流し、杖を支える細い手。遠くを見ているようで、境界の向こうの風を確かめているようでもある。
「起きたか、こよい」
長は振り返らずに言った。
その声は朝の空気のように澄んでいた。
「……はい」
「良い朝だ。風が変わった」
長は空を指差した。
高い空に薄い雲が流れている。昨夜までの淀んだ空気が消え、清い風が抜けていく。
「お前が神々を届けたことで、境界の淀みが少し晴れた」
「……ぼくのおかげ、ですか?」
「そうだ。神が本来の場所に戻れば、世界は呼吸を取り戻す」
長はゆっくりとこよいの方を向いた。
その目は、昨日より少し厳しく、真剣だった。深い皺の奥にある瞳が、こよいを射抜く。
「だが、これで終わりではない」
こよいは背筋を正した。
分かっていた。終わりではない。まだ、見えない場所で泣いている神がいる。
「……分かっています。まだ、観測者たちが」
「奴らだけではない」
長は庭の椅子に座るよう促した。こよいも向かいの切り株に腰を下ろす。
「世界は広い。霧原町や、この周辺だけではない。この国の至る所に、忘れられた神々がいる」
長の声が低く響く。
「忘れられ、消えかけ、観測者に狙われている神々がな。……奴らは組織立って動いている。神の力を奪い、世界を固定しようとしている」
こよいは巾着を握りしめた。
水路の神の言葉を思い出す。『この町には、たくさんいる』。きっと、他の町にも。他の山にも。誰にも気づかれず、泣いている神様がいる。
「長」
こよいは顔を上げた。
「ぼくに、その神々を集めろと言うんですか」
長は静かに首を振った。
「強制はせん。これは過酷な旅だ」
「昨日までの旅よりも、もっと長く、もっと危険な旅になる。……命の保証はない」
「お前はまだ、子供だ。ここで里の子として暮らす道もある」
里の子として暮らす。
それは、安全で、穏やかな日々だろう。毎日の食事があり、雨風を凌ぐ家があり、優しい人たちがいる。追われることもない。失うこともない。でも。
こよいは巾着を見た。
空の巾着。そこには絆が残っている。しおりの思いが、残っている。
彼女は、こよいを生かすために、自らを犠牲にした。生き延びるためだけではない。「届ける」という使命を果たすために、託してくれたのだ。
それに、あの言葉。
『神雧の時に、また会える』
その約束を果たすためには、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「……行きます」
こよいは言った。迷いはなかった。
「ぼくは、集め手です」
「耳が聞こえるのも、神様が見えるのも、きっとその為だから。……ぼくにしか、できないことだから」
長は、しばらくこよいを見つめていた。
その沈黙が永遠のように感じられた。試されているのだと思った。覚悟の重さを。
やがて、長は深く頷いた。
「そう言うと思っていた」
長の顔が、少しだけ綻んだ。孫を見るような、あるいはかつての同志を見るような、懐かしさと誇らしさが入り混じった目だった。
「お前は、強いな。……かつての私よりも」
「え?」
長は遠くを見る目をした。
「いや、なんでもない。……ならば、準備をせねばな」
長は立ち上がり、家の中に入っていった。
すぐに戻ってきた手には、一枚の地図と、新しい旅道具が抱えられていた。草鞋、乾燥させた薬草の束、小さな水筒。短剣も一振り。
「次の旅は、西へ向かう。そこには『風の神』の噂がある」
「風の神……」
「そうだ。風を司る神が、観測者に囚われかけているという情報が入った。……場所は、ここから三日ほど歩いた廃村だ」
長は地図を広げ、指で経路をなぞった。
山を越え、谷を渡り、西へ西へと続く道。乾いた土地。風の強い場所。
「そして、その先には神雧へと続く道があるはずだ」
神雧。
その言葉を聞くと、胸の奥が熱くなる。約束の場所。全ての神が集まり、全ての因縁が終わる場所。
「はい。行きます」
こよいは力強く答えた。
地図を受け取る。古びた紙の感触。インクの匂い。指先に伝わるざらつきが、新しい旅立ちの重さを教えてくれる。
「気をつけて行け。……道は険しいが、お前なら越えられる」
「ありがとうございます」
こよいは深く頭を下げた。
家を出ると、朝の霧がさらに薄くなっていた。里の端では、子どもたちが薪を抱えて走り、井戸の水が陽にきらめいている。こよいは荷を背負い直し、草鞋の結び目を確かめた。新しい紐の感触が足に食いつき、遠くへ歩く実感がじわりと湧いた。道端の小さな石に手を当て、一度だけ目を閉じる。
「……守ってね」
声は小さかったが、風がそれを拾っていく気がした。返事はない。それでも、胸の奥に静かな灯がともる。灯は消えない。歩き出せば、きっともっと大きくなる。
その灯を頼りに、こよいは背筋を伸ばした。
風が、吹いた。
里を駆け抜け、西へと向かう風。木々がざわめき、霧が薄く裂けていく。
それは、新しい旅立ちを告げる風だった。
こよいはその風に背を押され、最初の一歩を踏み出した。




