表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第2章 鈴の導き

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/125

第037話 新たな風

挿絵(By みてみん)


目が覚めた時、鳥の声が聞こえた。

 (さかい)の里の、穏やかな朝の音だった。チュン、チュンというスズメの声、屋根の上を跳ねる小さな爪の気配。遠くで響くカラスの鳴き声が、昨日の戦いと別れの記憶を薄い膜で包んでいく。


 こよいは布団の中で、ゆっくりと目を開けた。

 見慣れない天井の木目(もくめ)。太い(はり)囲炉裏(いろり)(すす)で黒く(いぶ)された天井だ。朝の光が格子の隙間から斜めに差し込み、(ほこり)の粒を浮かび上がらせている。


 昨夜は、泥のように眠った。夢も見なかった。

 体の奥にあった緊張が、ようやくほどけたのだ。三柱(みはしら)の神を届け終えた安堵(あんど)が、背中から指先へと流れ、深い眠りの底に沈めてくれた。汗と土の匂いが混じった布団に頬を埋めると、もう一度だけ眠りたくなる。


 体を起こすと、枕元(まくらもと)巾着(きんちゃく)があった。

 空の巾着(きんちゃく)

 手に取ると、驚くほど軽い。羽毛(うもう)のように軽く、中には空気しか入っていない。それでも、布地にはほのかな温もりが残っていた。水路(すいろ)の神の冷たい気配、道標(みちしるべ)の神の静かな重み、(ほこら)の神の鈴の音――それらが、布の織り目の奥にまだ息づいている気がする。


 薄い布団を畳み、顔を洗うために(おけ)の水を(すく)った。冷たい水が頬を刺し、眠気が一気に抜ける。水面に映る自分の顔は少し痩せて、目の奥だけが妙に強く光っていた。


 「……おはよう」


 こよいは、巾着(きんちゃく)に話しかけた。

 返事はない。当たり前だ。中には誰もいないのだから。

 けれど、窓の外から届く風が、かすかに答えたような気がした。北と西と東から、遠い場所の気配が返ってくる。水路(すいろ)(ほこら)道標(みちしるべ)。みんなそれぞれの場所で、新しい朝を迎えている。


 「……元気かな」


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱きしめた。

 寂しさはある。しかし、それは鋭い痛みではなく、じんわりと広がる温かい切なさだった。役割を果たした充実感(じゅうじつかん)が、寂しさをやさしく包んでいる。


   ◇


 身支度を整えて外に出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。

 霧が薄く漂い、家々の輪郭(りんかく)を柔らかくぼかしている。井戸の釣瓶(つるべ)が揺れる音、誰かが庭を掃く竹箒(たけぼうき)の音、味噌汁の匂い。里は穏やかで、平らな時間が流れていた。


 こよいは(おさ)の家へ向かった。

 これからのことを、話さなければならない。


 (おさ)は庭で空を見上げていた。

 背筋が伸びた静かな立ち姿。藍色の着流(きなが)し、杖を支える細い手。遠くを見ているようで、境界(きょうかい)の向こうの風を確かめているようでもある。


 「起きたか、こよい」


 (おさ)は振り返らずに言った。

 その声は朝の空気のように澄んでいた。


 「……はい」


 「良い朝だ。風が変わった」


 (おさ)は空を指差した。

 高い空に薄い雲が流れている。昨夜までの(よど)んだ空気が消え、清い風が抜けていく。


 「お前が神々を届けたことで、境界(きょうかい)(よど)みが少し晴れた」


 「……ぼくのおかげ、ですか?」


 「そうだ。神が本来の場所に戻れば、世界は呼吸を取り戻す」


 (おさ)はゆっくりとこよいの方を向いた。

 その目は、昨日より少し厳しく、真剣だった。深い(しわ)の奥にある瞳が、こよいを射抜く。


 「だが、これで終わりではない」


 こよいは背筋を正した。

 分かっていた。終わりではない。まだ、見えない場所で泣いている神がいる。


 「……分かっています。まだ、観測者(かんそくしゃ)たちが」


 「奴らだけではない」


 (おさ)は庭の椅子に座るよう促した。こよいも向かいの切り株に腰を下ろす。


 「世界は広い。霧原町(きりはらちょう)や、この周辺だけではない。この国の至る所に、忘れられた神々がいる」


 (おさ)の声が低く響く。


 「忘れられ、消えかけ、観測者(かんそくしゃ)に狙われている神々がな。……奴らは組織立って動いている。神の力を奪い、世界を固定(こてい)しようとしている」


 こよいは巾着(きんちゃく)を握りしめた。

 水路(すいろ)の神の言葉を思い出す。『この町には、たくさんいる』。きっと、他の町にも。他の山にも。誰にも気づかれず、泣いている神様がいる。


 「(おさ)


 こよいは顔を上げた。


 「ぼくに、その神々を集めろと言うんですか」


 (おさ)は静かに首を振った。


 「強制はせん。これは過酷(かこく)な旅だ」


 「昨日までの旅よりも、もっと長く、もっと危険な旅になる。……命の保証はない」


 「お前はまだ、子供だ。ここで里の子として暮らす道もある」


 里の子として暮らす。

 それは、安全で、穏やかな日々だろう。毎日の食事があり、雨風を(しの)ぐ家があり、優しい人たちがいる。追われることもない。失うこともない。でも。


 こよいは巾着(きんちゃく)を見た。

 空の巾着(きんちゃく)。そこには(きずな)が残っている。しおりの思いが、残っている。

 彼女は、こよいを生かすために、自らを犠牲(ぎせい)にした。生き延びるためだけではない。「届ける」という使命を果たすために、託してくれたのだ。


 それに、あの言葉。


 『神雧(かみあつめ)の時に、また会える』


 その約束を果たすためには、ここで立ち止まっているわけにはいかない。


 「……行きます」


 こよいは言った。迷いはなかった。


 「ぼくは、集め手(あつめて)です」


 「耳が聞こえるのも、神様が見えるのも、きっとその為だから。……ぼくにしか、できないことだから」


 (おさ)は、しばらくこよいを見つめていた。

 その沈黙が永遠のように感じられた。試されているのだと思った。覚悟(かくご)の重さを。


 やがて、(おさ)は深く頷いた。


 「そう言うと思っていた」


 (おさ)の顔が、少しだけ(ほころ)んだ。孫を見るような、あるいはかつての同志を見るような、懐かしさと誇らしさが入り混じった目だった。


 「お前は、強いな。……かつての私よりも」


 「え?」


 (おさ)は遠くを見る目をした。


 「いや、なんでもない。……ならば、準備をせねばな」


 (おさ)は立ち上がり、家の中に入っていった。

 すぐに戻ってきた手には、一枚の地図と、新しい旅道具が抱えられていた。草鞋(わらじ)、乾燥させた薬草の束、小さな水筒。短剣も一振り。


 「次の旅は、西へ向かう。そこには『風の神』の(うわさ)がある」


 「風の神……」


 「そうだ。風を司る神が、観測者(かんそくしゃ)(とら)われかけているという情報が入った。……場所は、ここから三日ほど歩いた廃村だ」


 (おさ)は地図を広げ、指で経路をなぞった。

 山を越え、谷を渡り、西へ西へと続く道。乾いた土地。風の強い場所。


 「そして、その先には神雧(かみあつめ)へと続く道があるはずだ」


 神雧(かみあつめ)

 その言葉を聞くと、胸の奥が熱くなる。約束の場所。全ての神が集まり、全ての因縁(いんねん)が終わる場所。


 「はい。行きます」


 こよいは力強く答えた。

 地図を受け取る。古びた紙の感触。インクの匂い。指先に伝わるざらつきが、新しい旅立ちの重さを教えてくれる。


 「気をつけて行け。……道は険しいが、お前なら越えられる」


 「ありがとうございます」


 こよいは深く頭を下げた。


 家を出ると、朝の霧がさらに薄くなっていた。里の端では、子どもたちが(まき)を抱えて走り、井戸の水が陽にきらめいている。こよいは荷を背負い直し、草鞋(わらじ)の結び目を確かめた。新しい紐の感触が足に食いつき、遠くへ歩く実感がじわりと湧いた。道端の小さな石に手を当て、一度だけ目を閉じる。


 「……守ってね」


 声は小さかったが、風がそれを拾っていく気がした。返事はない。それでも、胸の奥に静かな(ともしび)がともる。(ともしび)は消えない。歩き出せば、きっともっと大きくなる。

 その(ともしび)を頼りに、こよいは背筋を伸ばした。


 風が、吹いた。

 里を駆け抜け、西へと向かう風。木々がざわめき、霧が薄く裂けていく。

 それは、新しい旅立ちを告げる風だった。

 こよいはその風に背を押され、最初の一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ