第466話 記録の逆流
目録の頁が勝手にめくれた。
久遠は頁を押さえたが、紙が指の下で暴れた。文字が裏側から浮き出てくる。白く漂白されたはずの頁に、消えた記録が滲み出していた。
「なんだ、これは——」
久遠の声に、焦りが混じった。
目録の白い頁に、黒い染みが広がっていく。染みは文字の形をしていた。漂白される前の、元の記録。消されたはずの名前。消されたはずの座標。消されたはずの出来事。
それらが一斉に、白い紙の上に戻ってきていた。
「逆流だ」
久遠は義眼を全開にした。蒼光が目録全体を照らす。
「漂白が巻き戻ってる。消されたものが、消される前の状態に戻ろうとしている」
こよいは目録を覗き込んだ。
頁の上で、文字が生まれていく。最初は薄い灰色。それが徐々に濃くなり、黒い墨のようにはっきりと浮かび上がる。
名前が見えた。
知らない名前だった。漂白される前にこの目録に記されていた、誰かの名前。
「読める。『みくに』——これ、名前だよ」
こよいの声が弾んだ。
久遠は頁をめくった。次の頁にも文字が戻っている。その次も。その次も。白紙だったはずの頁が、次々と記録で埋まっていく。
「海底の膜が弱まっている影響だ。根が膜を突き破り始めたことで、漂白の力全体が揺らいている。目録だけじゃない。この海域全体で、漂白された記録が逆流してる」
あさひが列車の窓を開けた。
外の空気が変わっていた。霧の色が白から灰色に変わり、灰色の中に微かな金の粒が混じっている。漂白の白が薄れ、元の色が戻り始めている。
「あっちも同じか」
「同じだ。漂白が崩れてる」
久遠は義眼で外を確認しながら、目録の記録を読み取った。
「だが、これは不安定だ。漂白を管理していた観測者が、制御を失いかけている。逆流は制御された復元じゃない。堰が壊れて水が溢れてるようなものだ」
列車が揺れた。線路そのものが振動している。
窓の外で、海面に白い泡が立ち始めた。海底の膜がさらに裂け、中から押さえ込まれていたものが噴き出している。
泡の中に、光がある。金色の光。名前の光。
こよいは窓枠に手を置いた。
「戻ってきてる。名前たちが、海の底から戻ってきてる」
久遠は目録の記録速度を追いながら、義眼の焦点を絞った。
「観測者が対応し始めた。再漂白しようとしてる。逆流した記録をもう一度消そうとしている」
目録の頁が、また揺れた。
浮かび上がった文字の一部が、再び薄くなり始めている。消そうとする力と、戻ろうとする力がぶつかっている。
「間に合うのか」
あさひが久遠を見た。
「分からない。だが、逆流の速度は上がってる。根が膜を壊す速度が、観測者の修復速度を上回りつつある。このままいけば——」
久遠は鉛筆を握った。
目録に浮かんだ名前を、片端から別の紙に書き写し始めた。手が速い。義眼で読み、鉛筆で写す。消される前に写す。
「手伝う」
こよいが写本を広げた。
久遠が読み上げる名前を、こよいが写本に書き留めた。声には出さない。口の動きだけで伝え、こよいがそれを拾う。
名前が次々と写本に記された。
みくに。かさね。ほのか。たまき。消されていた名前たちが、紙の上に復元されていく。巾着で拾い集める五十一柱とは別の、漂白で世界から消された名前たちだ。救出の数には加えない。
あさひは二人の背中を守るように立ち、窓の外を監視した。
海面の泡が増えている。金色の光が水面を突き破り、霧の中に立ち昇っていく。
観測者の再漂白が追いつかない。
逆流は止まらない。
久遠の手が止まった。
目録の最後の頁に、大きな文字が浮かんでいた。他の名前より太く、深い。漂白される前に最も強い力で刻まれた記録。
「これは——座標だ」
久遠の義眼が鋭く光った。
「漂白の中枢の座標。観測者が漂白を管理している場所の位置情報。これも消されていた記録だ。逆流で戻ってきた」
こよいは写本にその座標を書き写した。
手が震えた。これが観測者への道になるかもしれない。
列車が大きく揺れた。
線路の下で、根が膜をさらに破った振動だった。
窓の外で、白い霧が金色に染まり始めていた。
逆流は加速している。消されたものが、この世界に戻ろうとしている。
久遠は目録を閉じ、写本を確かめた。
二十三の名前と、一つの座標。逆流が教えてくれた記録。
「足りるか」
あさひが振り向いた。
「足りないが、始まりには十分だ」
久遠は写本を畳み、懐に入れた。
海面の金色の光が、しばらく列車の窓を照らし続けていた。
逆流はまだ終わっていない。
おたまは写し終えた二十三の名の紙束へ鼻先を寄せ、最後の座標だけには触れずに尾を膨らませた。名と道標は同じ頁に戻ってきても、同じものではない。久遠は座標の紙を別に畳み、再漂白されないよう油紙の内側へ収めた。




