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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第15章 潮の外縁

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450/500

第450話 深淵の階段

挿絵(By みてみん)


経蔵(きょうぞう)に戻ると、空気の質が変わっていた。


 星野(ほしの)の氷の段(こおりのだん)を出て、石の回廊(かいろう)を歩いている。灯籠(とうろう)の明かりが壁に落ちる影は、行きよりもずっと薄い。灯(ひ)が弱まっている。こよいたちが奥へ進むにつれて、経蔵(きょうぞう)自体が呼吸を浅くしているように感じた。


 巾着(きんちゃく)が胸元で揺れるたびに、二十九の脈が静かに打つ。新しく加わったひらがなの名前は、まだ他の名前たちと息が合っていない。少し遅れて、少しずれて、けれど懸命に同じ拍動(はくどう)に追いつこうとしている。三百年の沈黙(ちんもく)の後に目覚めた名前が、仲間の鼓動を覚え直している。


 「左だ」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いたまま歩いている。頁(ページ)の上に経蔵(きょうぞう)の内部構造が薄く浮かんでいた。蒼光(そうこう)が紙面(しめん)を照らすたびに、線が一本ずつ現れる。地図(ちず)というよりも、血管図に近い。通路が枝分かれし、合流し、袋小路に折れ曲がっている。


 「計測室(けいそくしつ)は、この先の階段を降りた場所にある」


 「計測室(けいそくしつ)」


 こよいが繰り返した。


 「名前を分類し、管理する部屋だ。観測者(かんそくしゃ)が名前を処理するとき、最初にそこを通す。名前の構成要素を分解し、記録(きろく)し、保管する。あるいは——消す」


 久遠(くおん)の声が最後の一語だけ低くなった。消す。漂白(ひょうはく)の実行場所が、この先にある。


 あさひが足を止めた。

 回廊(かいろう)の壁に、手が触れている。掌(てのひら)を壁に当てたまま、じっと前を見ている。


 「音がする」


 こよいは耳を澄(す)ませた。

 最初は何も聞こえなかった。石の回廊(かいろう)は静かで、三人の足音(あしおと)と灯籠(とうろう)の炎が揺れる微かな音(おと)しかない。けれどあさひが壁に手を当てたまま動かないので、こよいも壁に耳を近づけた。


 聞こえた。

 低い振動(しんどう)。壁の向こうから伝わってくる、規則的な律動(りつどう)。金属が擦(す)れるような、歯車が噛み合うような音(おと)。壁の厚みに阻(はば)まれて輪郭(りんかく)を失っているが、確かにそこにある。何かが回っている。何かが動いている。


 巾着(きんちゃく)の中の名前たちが一斉に震えた。

 歓迎でも安堵(あんど)でもない。こよいは初めてこの震え方を感じた。怯(おび)えている。名前たちが、壁の向こうの音(おと)に怯えている。


 「知ってるんだ」


 こよいは巾着(きんちゃく)を両手で包んだ。名前たちは、この音(おと)が何なのかを知っている。かつて自分たちがここを通ったとき——あるいは仲間が通ったとき——この音(おと)を聞いている。体に刻まれた記憶(きおく)が、震えとなって蘇(よみがえ)っている。


 「怖がらなくていいよ。今度は、壊しに来たんだから」


 巾着(きんちゃく)に向かって、小さく言った。震えは止まらない。けれど脈動(みゃくどう)が少しだけ強くなった。こよいの声を聞き取ろうとしている。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。


 「ここから先は、記録(きろく)に残っていない領域がある。目録(もくろく)に載っているのは搬入口(はんにゅうぐち)までの経路だけだ。計測室(けいそくしつ)の内部構造は、観測者(かんそくしゃ)しか知らない」


 「なら探す」


 あさひが壁から手を離した。大剣の柄(つか)に手を添えて、先へ進む。迷いはない。音(おと)がするなら、その方向に行けばいい。


 回廊(かいろう)が細くなった。

 二人が並んで歩けた幅が、一人分になる。天井も低くなった。あさひは頭を下げて歩いている。布包みの大剣が壁に当たり、石粉が落ちるたびに、灯籠(とうろう)の炎が揺れた。


 壁の振動(しんどう)が強くなっている。近づいている。音(おと)の輪郭(りんかく)が鮮明になっていく。歯車の噛み合う音(おと)。軸が回る音(おと)。そしてその中に混じる、もう一つの音(おと)。


 声だ。

 声が混じっている。歯車の軋(きし)みの中に、名前の声が混じっている。


 こよいの足が止まった。

 泣いている。歯車の向こうで、名前が泣いている。削られながら。


 写本(しゃほん)が胸元で震えた。巾着(きんちゃく)の中の二十九の脈が、仲間の声を聞いている。そしてこよいもまた、聞いている。名前の声を聞ける耳になっている自分に気づいた。旅の始まりには聞こえなかった音(おと)が、今は聞こえる。


 回廊(かいろう)の突き当たりに、下り階段が口を開けていた。


 最初の段へ足を置くと、こよいの中から何かが一つ抜けた。何を失ったのか分からない。そのこと自体が恐ろしかった。二段目では、あさひの呼び名が喉まで出かかって止まる。姿も関係も分かるのに、音だけが一瞬白く欠けた。


 「進むな」


 階段の側面には三列の溝が刻まれていた。上は意味、中は音、下は形。名前を一段ずつ構成要素へ分け、別々に計測室へ送る解体手順だった。


 おたまが縁へ前脚を置く。名を持たない猫からは何も抜けない。だが小鈴の響きが二段目で三つに分かれた。誰のものかという意味、鈴という音、丸い器という形。それぞれ別の溝へ引かれていく。


 こよいは巾着を開かず、布越しに二十九の拍を数えた。全てある。ただ階段が一つずつを三つへ裂こうとしている。


 「戻せるの?」


 久遠(くおん)が溝へ義眼を当てる。三列のさらに奥に、金色の細線が見えた。意味、音、形のどれにも属さず、三つを同じ名として結びつける根だった。


 「解体された情報は消えていない。別々の溝へ送られるだけだ。根が元の組み合わせを覚えている」


 砂には形、海には音、町の札には意味の痕跡が残った。旅で見てきた断片は、三つの保管先から同じ根へ戻せば再構成できる可能性がある。


 久遠は目録へ完成文を書かず、三つの点を金線で結んだ。観測者に「復元手順」という言葉を拾わせないためだ。


 あさひが一段下り、石を強く踏む。重い振動へ音の溝が反応し、名前から離れた。久遠は義眼で形の列を固定する。こよいは意味を呼ばず、一柱ずつ固有の拍だけを掌で覚えた。


 おたまは三人の間を歩き、小鈴の分かれた響きを一箇所へ重ねる。猫自身に名がないから、どの列にも奪われず境を渡れた。


 一段。また一段。


 七十段の半ばで、泣き声が言葉になった。


 ——ばらばらにしないで。


 「しない。今度は繋ぎに来たんだ」


 さっきの「壊しに来た」を言い直す。壊すのは名前ではない。名前を分けたまま回し続ける仕組みだ。


 階段の底に、白銀の歯車が見えた。三つの溝は計測室の別々の壁へ続き、その下を金色の根だけが一つのまま横切っていた。

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