第449話 影見の再訪
経蔵外壁の搬入口を根の脈で開くと、内側は「影見区画」と刻まれていた。収容物の影だけを外から検分する保管区画で、以前、根の道越しに見た星野の氷段がここへ接続されている。
影見区画を再訪すると、星野の氷の段に変化があった。
氷の表面が曇っている。透明だったはずの氷が、内側から白く濁り始めていた。
内側から温められて、結露している。氷の中に閉じ込められた空気の粒が膨らみ、光を乱反射させている。前回来たときは、氷の中が透けて見えた。今は見えない。代わりに、氷の表面に水滴が並んでいる。小さな粒が無数に。まるで汗をかいているように。
根の熱が氷を薄くし続けている。地下から伝わる名前の根の温度が、何日もかけて氷を内側から溶かしている。
こよいは前回と同じ場所に膝をついた。石畳の冷たさが膝を通して伝わるが、前回ほどではない。床にまで根の熱が届き始めている。
前回よりも冷たくない。
氷の厚さが半分以下になっている。指で表面に触れると、水膜がぬるりと指先を滑った。溶けた水が薄い層を作っている。耳を氷に当てた。頬に冷たさが伝わり、こめかみの骨を通して、氷の中の音が届く。
声が聞こえた。
前回は泣き声だった。押し殺したような、喉の奥で震える声。
その前は名乗りの声だった。自分の名前を繰り返す、幼い声。
今回は、話しかけてきた。
「……おかえり」
こよいは息を止めた。氷の下から、はっきりとした声が届いた。
幼い声。高くて、柔らかい。
ひらがなの響き。一音ずつ区切るような話し方。でも怯えてはいない。前回よりも、ずっと近い声だった。氷が薄くなった分だけ、声の輪郭が鮮明になっている。
「おかえりって——ぼくに?」
こよいは氷の表面に向かって話した。自分の声が氷に触れ、表面の水膜を微かに震わせた。
声が氷を伝わるかどうか分からない。氷が音を通すのか、遮るのか。
けれど話した。返事があった。
「……まえにも、きた。てが、つめたかった」
覚えている。
前回、こよいが手を差し入れたことを、この名前は覚えていた。こよいの手の冷たさを、氷の下から感じ取っていた。あの時、こよいは何も掴めなかったと思っていた。けれど名前の方は、こよいの手を覚えていた。冷たかったことを。それでも伸ばしてきたことを。
久遠が傍らで膝をついた。
義眼を氷に向ける。蒼光が曇った氷を透過し、その下にある光の塊を照らした。金色の光が蒼い光に反応して揺れている。
「声の主を特定できた。凍結分類。収容時期は三百年前。神雧の泉で生まれた名前だ」
三百年。この氷の下で三百年。ひらがな二文字の名前が、凍結されたまま三百年を過ごした。声を出すこともできず、動くこともできず、ただ凍りついていた。それでも、前回こよいが来たことを覚えている。三百年の中の、たった一回の訪問を。
こよいは写本を取り出した。
亀裂の場所を探す。前回の亀裂はまだ残っている。溝の中に水が溜まり、薄い氷の蓋が張っていた。
前回抽出した場所の隣に、新しい亀裂が走っていた。根の熱が新しい亀裂を作っている。地下から伸びた金色の根が、氷の底面を押し上げ、圧力で亀裂を広げている。根は名前を助けようとしている。溶かして、解放しようとしている。
「出られる?」
こよいが訊いた。声が震えた。期待と不安が混じっている。
「……あったかいのが、きてる。したからすこしずつ、とけてる」
幼い声が答えた。「あったかいの」が根の熱だと分かっているのかどうかは、分からない。けれど温かさを感じている。三百年ぶりの温かさを。
「今、紙を当てるから。紙に触って」
写本を亀裂に押し当てた。紙の端が溶けた水に触れて湿る。冷たい水が紙の繊維に染み込んでいく。
氷の下で、何かが動いた。蒼光に照らされた氷の奥で、金色の光が揺れている。こよいの写本に向かって、近づいてくる。
光が亀裂に向かってきた。
小さな金色の光。蛍のように淡く、けれど確かに輝いている。
ひらがな二文字分。光が亀裂を通り、写本の湿った紙面に触れた。
紙が温かくなった。冷たい水で湿っていたはずの紙が、金色の光に触れた瞬間、乾いていく。光が水を押し退け、紙の繊維の中に入り込む。
文字が浮かんだ。ひらがな二文字。柔らかい筆跡。三百年前に凍結された名前が、今、写本の上で息を吹き返した。
五十一柱の目録で、四十三柱目。巾着では二十九番目の脈だった。
氷の下の声が変わった。
言葉ではなく、息を吐く音。長く、ゆっくりと。
安堵の息だった。三百年分の緊張が、一つの呼気に変わって溶け出していく。
巾着が鳴った。高い音。
歓迎の声。中の二十八の脈が一斉に打ち、新しい仲間の到着を祝って二十九の波へ揃う。巾着の布が温度を上げ、こよいの胸元が熱くなった。
こよいは氷の表面に手のひらを当てた。今度は冷たくない。氷の薄さと根の熱が、手のひらの温度と釣り合っている。
「まだいるよね。下に」
返事はなかった。
けれど氷の下で、微かに光が揺れた。一つではない。複数の光が、遠くの方で瞬いている。今出てきた名前の隣に、まだ何柱もの名前が凍りついている。
まだいる。
まだ待っている。
根が溶かしてくれるのを。こよいが来てくれるのを。
あさひが立ち上がった。布包みの大剣の石突が石畳に触れ、くぐもった音が響いた。
「行くぞ。次がある」
短い言葉。けれどあさひの目は氷の表面を一瞬だけ見ていた。氷の下の光を確かめるように。それから、視線を前に戻した。
こよいは頷いた。
氷の表面に残した手のひらの跡が、じわりと溶けて水になっていた。こよいの体温が氷を溶かし、手の形の窪みを残している。根の熱とは違う、人の熱。その窪みが乾くまでの間だけ、こよいがここにいた証が残る。
四十三柱目。
ようやくここまで来た。けれど星野の氷の下には、まだたくさんの光が眠っている。根の熱がすべてを溶かすには、時間がかかる。一度には無理だ。少しずつ。亀裂を一本ずつ広げて、一柱ずつ迎えに行く。
おたまが薄くなった氷へ耳を当て、残る光の数だけ尾を打った。今すぐ安全に通せる亀裂は一つだけだが、最後の一柱まで根が届く順番を鈴の反響で記録できた。
こよいは写本を閉じ、巾着を胸に当てた。中で二十九の脈が打っている。新しく加わったひらがなの名前が、他の名前たちに挨拶するように、小さく震えていた。古い名前たちがそれに応えて、脈動のリズムをほんの少しだけ変える。新しい仲間のリズムに合わせるように。
「次、来るからね」
氷に向かって、小さく呟いた。返事はなかった。けれど根の熱が、ほんの少しだけ強くなった気がした。氷の下の光が、一つだけ、ほんの一瞬だけ明るくなった。




