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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第15章 潮の外縁

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第447話 地図にない岬

挿絵(By みてみん)


岬(みさき)が見えた。

 地図(ちず)にはない岬(みさき)。

 海図(かいず)の線は、そこで終わっている。白い余白(よはく)。紙の端ではなく、紙の途中で線が途切れている。その先に何があるかを、誰も記録(きろく)しなかった。あるいは、記録(きろく)することを許されなかった。

 でも、現実の海(うみ)は終わらない。霧(きり)の向こうに、岩の影(かげ)が突き出している。黒い岩肌が潮(しお)に洗われ、白い泡(あわ)の筋を引いていた。岩の表面には海藻(かいそう)の残骸(ざんがい)がこびりつき、乾いた塩の結晶が粉のように散っている。


 「……あるじゃん」


 あさひが確認するように言った。声に緊張はない。見えたものをそのまま口にしただけだ。大剣の柄(つか)に手は添えているが、握ってはいない。ここに敵はいないと、身体が判断している。


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。頁(ページ)の端に金色の線が走っていたが、岬(みさき)が見えた途端に線が消えた。目録(もくろく)の導きがここで途切れたのではなく、目録(もくろく)の知らない場所に来たのだ。


 「ある。だから厄介(やっかい)だ。地図(ちず)にないものは、測れない。測れないものは、計器の外だ」


 計器の外。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)でも読めない。蒼光(そうこう)を岬(みさき)に向けたが、光は岩の表面で散乱し、情報として返ってこない。目録(もくろく)に新しい頁(ページ)は追加されない。地図(ちず)の余白(よはく)は余白(よはく)のままだ。


 こよいは巾着(きんちゃく)を抱え、岬(みさき)を見つめた。

 潮風(しおかぜ)が顔に当たる。塩辛(しおから)い。唇が乾いて、舐(な)めると塩の味がした。霧(きり)が岬(みさき)の根元で薄くなり、岩肌の色がはっきり見える。黒い岩。ところどころに白い筋。潮(しお)の跡ではない。石灰(せっかい)のような白さ。自然にできた模様には見えなかった。

 岬(みさき)の先で、灯(ひ)が一瞬だけ瞬(またた)いた気がした。光ではなく、光の記憶(きおく)のようなもの。見えたというよりも、まぶたの裏に焼きついた残像(ざんぞう)に近い。巾着(きんちゃく)の中の神々が、その瞬間だけ脈動(みゃくどう)を速めた。


 「行く?」


 こよいが訊くと、久遠(くおん)は頷(うなず)く。迷いはなかった。


 「行く。地図(ちず)にない場所にこそ、逃げた記録(きろく)が溜(た)まる」


 逃げた記録(きろく)。漂白(ひょうはく)から逃れた名前。観測者(かんそくしゃ)の目が届かない余白(よはく)に身を隠した名前。地図(ちず)に描かれないことが、ここでは盾(たて)になる。


 あさひが笑う。口の端を上げただけの、短い笑い。


 「なら、行く理由は十分だ」


 岬(みさき)へ向かう道は、細い。

 岩と岩の間を縫(ぬ)うように続く獣道(けものみち)。幅は一人分。足元は貝殻(かいがら)の粉と砂利(じゃり)が混じり、踏むたびに乾いた音(おと)がする。

 波が来るたび、道が削れる。潮(しお)が引くと、さっきまであった道の端(はし)が消えている。歩いている間にも、道の幅が狭くなっていく。海が、この道を消そうとしている。あるいは、道が海に還ろうとしている。


 こよいは足元を確かめながら歩いた。

 地図(ちず)にない岬(みさき)へ向かうのは、怖い。足を置く場所が正しいのか、誰にも保証されない。一歩ごとに地面の硬さが変わる。踏みしめたつもりでも、砂利(じゃり)が崩れて足首を取られることがあった。

 でも、地図(ちず)の外に出なければ、地図(ちず)を書き換えることもできない。この余白(よはく)を歩いた足跡が、新しい地図(ちず)の最初の線になる。


 岬(みさき)が近づく。

 霧(きり)の匂いが薄くなる代わりに、乾いた石の匂いが混じる。海の匂いの下に、もっと古い匂いがある。何百年も潮(しお)に洗われ続けた岩の、鉄錆(てつさ)びに似た匂い。時間そのものの匂いだった。


 岬(みさき)の足元には、貝殻(かいがら)が散っていた。

 潮(しお)に磨(みが)かれた白い欠片(かけら)。角が取れて丸くなっている。こよいが一枚拾い上げると、表面に細い溝(みぞ)が走っていた。文字に似た割れ方をしている。偶然の模様ではない。波に削られる前、この貝殻(かいがら)に何かが刻まれていたのだ。


 こよいは一枚拾い、掌(てのひら)で転がした。手のひらに収まる小ささ。軽い。紙よりも軽い。

 貝殻(かいがら)は軽いのに、ここに辿(たど)り着いた事実だけは重い。海に流され、波に洗われ、それでもこの岬(みさき)に打ち上げられた。地図(ちず)にない場所に、それでも辿(たど)り着くものがある。


 「……地図(ちず)にない場所って、こういう匂いがするんだね」


 こよいの呟(つぶや)きに、久遠(くおん)は短く頷(うなず)いた。義眼(ぎがん)は岬(みさき)の先端を見ている。蒼光(そうこう)が届かない。けれど、目で見ている。計器ではなく、目で。


 岬(みさき)の先端に立つと、霧(きり)が晴れた。

 風が変わった。陸側から吹いていた風が、海側からの風に切り替わる瞬間、霧(きり)の壁が左右に割れた。視界が開ける。

 眼下に、小さな入り江(いりえ)が広がっている。

 岩壁(がんぺき)に囲まれた、掌(てのひら)のような形の入り江(いりえ)。波は穏やかで、海面(かいめん)が鏡(かがみ)のように凪(な)いでいる。その凪(な)いだ水面の下に、金色の光が沈んでいた。

 名前の光だ。水底(みなそこ)に沈んでいるのではなく、水の中に漂(ただよ)っている。潮(しお)の流れに乗って、ゆっくりと円を描いている。入り江(いりえ)の形に閉じ込められて、外へ出られないまま、何年も——何十年も——ここで漂(ただよ)い続けていた。


 こよいは写本(しゃほん)を取り出し、入り江(いりえ)に向かって差し伸べた。

 風が写本(しゃほん)の端を揺らす。紙が潮風(しおかぜ)を受けてぱたぱたと音を立てた。

 光が揺れた。応えるように、ゆっくりと浮かび上がってくる。水面(みなも)に向かって、金色の粒子(りゅうし)が一つ、また一つと昇っていく。


 地図(ちず)にない場所に、名前が隠れていた。

 見つかることを、待っていたのかもしれない。地図(ちず)の余白(よはく)の中で、声も出せず、誰にも見つけてもらえないまま、それでも光ることをやめなかった。

 巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、入り江(いりえ)の光に向かって脈を送っている。ここにいるよ、と。見つけたよ、と。


 おたまが崖の縁から小鈴を鳴らすと、浮かびかけた光は一斉に同じ出口へ寄った。入り江の北側、露の粒が連なる細い水路だ。無理に写本へ吸い上げれば群れが崩れるが、水路を開けば自分たちの速さで出られる。


 あさひが塞いでいた岩を動かし、久遠(くおん)が潮位と流量を測る。こよいは回収せず、写本を水路の先へ置いて目印にした。最初の光が自力で水路へ入るのを見届ける。


 「全部を持つんじゃなくて、帰れる道を作る」


 入り江の群れは柱数へ加えない。次の露橋(つゆばし)が、音素を崩さず経蔵外壁まで運ぶ古い搬送路だと目録の隠し書きに残っていた。三人は橋を開くため、光の列より先に岬を下りた。

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