第446話 霧の遅延壁
霧の壁は、二度目には円弧も止めた。
分室跡を離れ、裸足の足跡が示す方角へ進んだ三人の前で、銀色の霧が地面から立ち上がった。先ほどと同じ遅延障壁なら、直線を避けて曲線で抜けられる。久遠はそう判断し、前と同じ半径の弧を選んだ。
十歩進んでも、壁の縁が近づかない。
おたまの小鈴も、鳴ってから耳へ届くまでに一呼吸かかる。霧は直線だけでなく、三人が一度使った円弧の歩幅と速度を覚えていた。
「学習したのか」
久遠の義眼が霧を走査する。蒼光は壁へ入った瞬間に遅くなり、途中で静止した。
「前の通過記録を読み、同じ運動を遅延対象へ加えた。効率的な計器は想定外に弱い。だが同じ想定外は、二度目から想定内になる」
あさひが砂を蹴った。粒は放物線を描く途中で遅くなり、空中に並ぶ。次に別の角度へ蹴ると、二度目の粒は最初より早い位置で止まった。
壁は観測するたび、止められる動きを増やしている。
背後を振り返ると、分室の三本柱が霧に半分呑まれていた。裸足の足跡も、一つずつ銀色の膜へ覆われていく。このまま立ち止まれば、星降町へ逃げた者の道まで壁の学習材料にされる。
こよいは最初の足跡へ戻ろうとした。
「何をする」
あさひが肩を掴む。
「消える前に写したい」
「目録にはもうある」
「紙じゃなくて、この子が歩いた形を——」
言葉が途切れた。残したいという気持ちのまま同じ道を辿れば、壁はその執着まで測る。守ろうとする行動が、足跡を追う手掛かりになる。
久遠が目録の頁を破りかけ、やめた。写した座標を捨てれば壁から隠せるかもしれない。だが、それでは観測者と同じように記録を消して守ることになる。
「残す。ただし、道順としては使わない」
足跡の座標を文字で閉じず、頁の端へ大小の窪みだけを押した。どちらへ進んだかは読めない。けれど子どもの足の大きさと、歩いた歩数は指で触れれば分かる。
「星降町という言葉も書かないの?」
「俺たちは知っている。紙には、必要なときまで言わせない」
余白へ守る方法を、第15章に入る前から三人は覚えてきた。決めた情報を隠すのではなく、意味になる一歩手前で留める。霧が頁を読んでも、窪みを逃走経路として分類できない。
こよいは消えていく足跡へ一礼した。追わないことは見捨てることではない。こちらの行動から行き先を逆算させないための選択だった。
「考えてる間にも手が増えるぞ」
あさひが大剣を抜く。斬撃の軌道も、最初の一度は霧を割った。二度目には刃の前へ銀色の密度が集まり、剣速を奪う。あさひは無理に振り抜かず、刃を引いた。
こよいは巾着を握った。二十八の脈は同じ拍を保っている。だが全員で一つのリズムを作れば、その拍も壁に覚えられる。
「揃わない方がいい」
自分で言って、紐を緩めた。
名前たちは普段、互いを支えるため拍を合わせる。こよいは一柱ずつの違いへ耳を澄ませた。速い脈。遅い脈。二拍休む脈。小さく二度跳ねる脈。全員が同じではないから、一つが止められても別の拍が残る。
「壁に、次を予測させなければいいんだ」
それでも、ばらばらに動くことへの怖さはあった。これまで三人は、離れないことで生き延びてきた。巾着の名も、拍を揃えることで不完全な仲間を守った。ここでは、その強さを一度ほどかなければならない。
「見失ったら?」
こよいが訊く。
あさひは霧の中でも見えるよう、大剣の布包みへ金色の砂を擦りつけた。
「姿を追うな。俺が地面を踏む振動を拾え」
久遠は義眼の蒼光を最低まで落とし、二度だけ瞬かせる。
「光は必要なときだけ出す。常に見えていれば壁も読む」
こよいは巾着の紐を手首へ一巻きした。離れても二十八の脈は皮膚へ届く。
同じ動きをしない。だが互いを見失わない。
揃うことと繋がることは、同じではなかった。
久遠は目録を閉じた。決まった歩幅を書けば、それが観測者への手順書になる。三人は合図を言葉にせず、巾着から掌へ届く脈を一人ずつ別に選んだ。
こよいは速い脈で三歩。
あさひは遅い脈で一歩。
久遠は二拍休む脈で斜めへ。
三人の位置がばらばらになる。霧がそれぞれを止めようと密度を変えるが、次の瞬間には別の者が別の方向へ動く。壁の銀色が三つに裂け、判断の間に隙間が生まれた。
おたまは誰の拍にも従わなかった。
立ち止まり、突然走り、戻ったように見えて岩へ跳ぶ。小鈴の間隔も歩幅も一定しない。名も影も持たない猫の動きは、計器の分類に入らない。霧が追う対象を決められず、おたまの周囲だけ薄くなる。
「猫を追え」
久遠が短く言った。
おたまの足跡を踏むのではない。一匹が作る予測不能な空白へ、それぞれ違う拍で入る。こよいは右、あさひは左、久遠は一度後ろへ下がってから前へ出た。
霧の壁が震えた。
学んだ直線、円弧、斬撃の情報が一斉に呼び出され、互いに衝突する。どの遅延を優先するか決められないまま、銀色の面に縦の亀裂が走った。
あさひが今まで一度も使わなかった動きで、剣の柄を亀裂へ投げた。刃でなく柄が霧を押し、壁の向こうへ抜ける。すぐに剣を引き戻し、開いた幅へ身体を差し込んだ。
こよいが続く。巾着を胸へ押さえず、腰で自由に揺らした。二十八の異なる拍が霧へ散り、壁の観測をさらに乱す。
久遠が最後に抜けた。義眼を消し、目録も開かない。観測する者が観測される仕組みなら、読まないことが最後の撹乱になる。
三人とおたまが向こう側へ出ると、霧の壁はすぐに閉じた。
だが同じ壁ではなかった。銀色の表面に、金色の傷が無数に残っている。名前たちの揃わない拍が、学習できない差として刻まれていた。
「次は、これも覚えるかな」
こよいが訊く。
「全部は覚えられない」
久遠は赤くなった義眼の縁を押さえた。
「違いを消して同じものとして扱うのが観測者のやり方だ。違い続けるものを完全には予測できない」
霧の先で潮の匂いが強くなった。目録の海図はそこで途切れている。白い余白の向こうに、細い岬の輪郭だけが肉眼で見えた。
地図にない岬だった。
おたまが小鈴を鳴らし、今度は誰とも揃わない足取りで先へ進んだ。
誰とも揃わない足取りで、おたまが先へ進む。霧の壁がどんなに理を歪めても、猫の歩みだけは、いつも自分の律動を保っていた。三人は、その白い尾の先を頼りに、遅延する時間の中を進んだ。




