第445話 霧の遠さ
列車の反対側の扉を手で開き、三人とおたまは四柱の金線が示す脇の霧へ滑り込んだ。正面の十二の投影殻が車内へ集まる間に、中継点の外側を回って中枢への別経路を探す。
霧の向こうに、何かがある。
それは確信ではなく、肌の感覚だった。潮の外縁を歩き始めてから、霧の質が変わっている。湿度ではない。霧そのものが、何かを隠すために濃くなっている。
こよいは巾着を胸に当て、神々の脈動を確かめた。規則的な共鳴だった。
「座標がある」
久遠が目録を広げたまま立ち止まった。
蒼光が頁の上で揺れている。文字が霧に反応するように明滅し、頁の端に細い金色の線が一本だけ走った。
「目録の裏面に記録されていた観測者の業務記録に、この座標が出てくる。経蔵の分室。名前の一時保管施設だ。霧の向こうにある」
あさひが剣の柄を叩いた。
「見えるのか」
「見えない。だが座標は読める。距離にして三百歩。方角は正面。だが——」
久遠は義眼を細めた。
「近づけない。この霧は観測者が設置した遅延障壁だ。中に入った者の体感時間を引き延ばして、実際には一歩も進んでいないように見せる」
こよいは足元を見た。
貝殻の粉に、自分の足跡がある。たしかに歩いてきた。けれど振り返ると、出発点はすぐそこにあった。十分は歩いたはずなのに、三歩分しか進んでいない。
「……騙されてたんだ」
「騙すというより、薄めている。時間と距離の関係を霧が書き換えている。俺たちの身体は動いているが、空間が伸びている」
あさひが地面を蹴った。砂が飛ぶ。飛んだ砂は、途中で速度を失い、霧の中に溶けるように消えた。
「力任せは無駄だ。霧の密度が高い場所ほど、速度が食われる」
「じゃあ、どうする」
久遠は目録を閉じ、腕を組んだ。
「遅延障壁は、直線移動を前提に設計されている。まっすぐ進む者を減速させる仕組みだ。だから、直線を避ける」
久遠は足元に、靴の先で弧を描いた。
「円を描くように歩く。障壁は直線の速度だけを測っている。円弧の移動には対応していない。理の計器は効率的だが、想定外の動きには弱い」
三人は横に並び、緩い弧を描くようにして歩き始めた。
奇妙な歩行だった。目的地は正面にあるのに、身体は斜めに進んでいる。足元の感覚も変わった。直線で歩いていたときの引き延ばされるような重さが消え、足が軽くなった。
霧の色が変わり始める。
灰色から、薄い銀色へ。銀の霧の向こうに、輪郭が見えた。
建物ではない。
石の柱が三本、霧の中に立っている。柱の表面に、文字が刻まれていた。旧字体の名前が、びっしりと彫り込まれている。
「分室の入口だ」
久遠の声が硬くなった。
「だが、中身はない。名前はすでに移送されている。残っているのは、ここに名前があったという記録だけだ」
こよいは柱に手を触れた。
石は冷たい。けれど文字の部分だけが、かすかに温かかった。名前の残熱が、石の中に閉じ込められている。
巾着の神々が反応した。脈が速くなる。
柱に刻まれた名前の一つ一つに、仲間の気配を感じ取っている。
「……ここにいたんだね」
こよいは柱の文字をなぞった。指先に伝わる温もりは微かだったが、確かにあった。
久遠が目録を開き、柱の文字を写し始めた。一文字ずつ、正確に。義眼の蒼光が、石に刻まれた旧字を照らし出す。
あさひは三本の柱の周囲を歩き、地面の状態を確かめていた。
「足跡がある。新しい」
「観測者のものか」
「いや、違う。裸足だ。子どもの足くらいの大きさだ」
三人は顔を見合わせた。
名前が、自分の足で歩いたのだ。鐘の音に呼ばれて、ここから出て行った名前がいる。
こよいは柱の根元に膝をつき、写本を広げた。柱の文字を写すのではなく、裸足の足跡の方角だけを記した。その名前が、どこへ向かったのか。
足跡は、霧の薄い方へ続いていた。
鐘の音が届く方角。星降町の方角。
「……帰れたのかな」
こよいの声は小さかった。
霧が再び濃くなり始めている。遅延障壁が修復を始めたのだ。
久遠は目録を閉じ、帰路の弧を描き始めた。
三本の柱が霧に沈んでいく。遠ざかるほど、霧は深くなる。銀色の霧が柱の輪郭を少しずつ飲み込み、刻まれた文字の最後の一画が見えなくなった。けれど柱の温もりは、こよいの指先にまだ残っていた。
巾着の中で、神々が静かに脈打っている。柱に触れたときよりも穏やかな脈で、仲間がいた場所の記憶を噛みしめるように震えていた。
仲間の痕跡を感じた余韻が、布越しに伝わってくる。
おたまは直線ではなく、金線の周りを小さな弧で歩いた。小鈴の間隔が縮まる弧だけを選ぶと、遅延の引き延ばしが働かない。久遠の解析を猫が身体で実演し、三人は同じ曲線を踏んだ。
背後では霧が修復を始める。投影殻は追ってこない。中枢へ回収され、長の一体へ統合される気配が金線の先で強まった。十二を置き去りにしたのではなく、最終的に対峙する一つの計器へ集めさせたのだ。
十二を置き去りにした。その重さを、こよいは忘れないと決めた。統合され、長の一体になっていく気配を背に、三人は前だけを見た。救えなかった数を数えることが、次に救う理由になる。




