第441話 町の静けさ
町は静かだった。
静かすぎて、足音が悪目立ちする。石畳を踏むたびに、硬い反響が通りの両側の壁に跳ね返り、増幅されて戻ってくる。自分たちの足音だけが、この町に存在する唯一の音だった。
家はある。窓もある。灯も点いている。
なのに、人の気配がない。犬の鳴き声も、鍋の音も、咳払いもない。窓の向こうに揺れる灯は、誰かが灯したのではなく、消す者がいなくなっただけに見えた。灯心が燃え尽きるまで、ただ灯り続けている。
生活の音だけが、きれいに取り除かれている。
こよいは息を吸った。
空気が薄い。肺に入る量はいつもと同じはずなのに、何かが足りない。音が吸われる空気だ。声を出せば、その声も吸い取られてしまいそうな、そういう重さが鼻腔の奥に広がっていた。
壁の漆喰は灰色に褪せ、ところどころ剥がれた跡が黒い下地を見せている。軒下に干された布が、風もないのに微かに揺れていた。揺れているのに音がしない。それが、この町の異様さを一番よく伝えていた。
久遠が声を低くして言った。
「……観測が、町を黙らせた」
「黙らせる?」
「声は記録になる。記録は追跡できる。だから、声を奪う」
久遠の義眼が町並みを走査している。蒼光が壁の表面をなぞり、窓枠の木目を照らし、石畳の継ぎ目を追う。読み取れるものを探しているのだろう。けれど蒼い光は何にも引っかからず、滑るように町の奥へ消えていった。声を奪われた町は、記録も拒んでいる。
あさひが鼻を鳴らす。
「卑怯だな」
短い言葉に、怒りが滲んでいた。あさひの手が大剣の柄を握り、離し、また握る。斬る相手がいないことへの苛立ちが、その反復に出ていた。声を奪うという行為は、あさひにとって最も軽蔑すべきものだった。戦う前に、相手から声を取り上げる。名乗りも、叫びも、救いを求める声すらも。
こよいは巾着を抱え、灯の下を歩いた。
神々の温もりが、静けさの中でやけに大きく感じる。胸元にある小さな熱源が、この町で唯一の生きた温度だった。巾着の中の名前たちは声を出さない。けれど脈動は続いている。この町の静けさに飲み込まれることなく、布の中で確かに拍動している。
町の角を曲がると、井戸があった。
石を積み上げた古い井戸。縁の石が黒ずみ、苔の痕跡だけが残っている。苔自体はもう枯れていた。水気を失って、石の表面に灰色の染みを残している。
井戸の上に、札が掛かっている。
木の札。紐で縁に吊るされている。風がないのに、微かに揺れていた。
札には文字がない。表面が削られている。文字があった場所だけが、周囲よりわずかに凹んでいた。文字を消した跡だった。でも、札の裏側が、微かに震えている。
こよいは札に触れ、耳を近づけた。
音はない。代わりに、胸の奥がきゅっと鳴った。指先に木の乾いた感触が伝わり、その奥に、もっと古い温度がある。名前の残熱ではない。恐怖の温度だ。誰かがこの札に、声を閉じ込めたのかもしれない。声を出せなくなった誰かが、最後の手段として札に触れ、自分の存在の痕跡を残そうとした。
久遠が言う。
「静けさは、死じゃない。恐怖だ。恐怖が、声の代わりに残ってる」
義眼の蒼光が札を照らした。金色の文字は浮かばない。名前はない。けれど蒼い光が札の木目に沿って震えている。恐怖が刻まれた木の繊維が、光を乱反射しているのだ。
あさひが剣の柄を叩く。硬い音が静けさを裂いた。その音は一瞬だけ通りに響き、すぐに吸い込まれて消えた。
「恐怖なら、斬れる」
「斬るな。ここは聞け」
久遠の言葉に、あさひが黙る。剣の柄から手を離しはしない。けれど力を抜いた。久遠の判断に従うときの仕草だった。聞け、と言われたから聞く。それがあさひの信頼の示し方だった。
こよいは頷いた。
静けさを壊さない。壊さずに、通る。
町の静けさは、敵の技術だった。でも、静けさの中でも歩ける、という自分たちの証明でもあった。声を奪われても、足は動く。脈は打つ。巾着の中の名前たちが黙っていても、温もりだけは伝えてくる。それで十分だった。
町の静けさの中で、ひとつだけ音がした。
木札が、かすかに擦れる音。紐が軸にこすれる、乾いた小さな音。
こよいが振り返ると、誰もいない。でも、札だけが揺れている。さっきよりも大きく。風ではない。何かが、内側から札を押している。
「……居る」
こよいが言うと、久遠が頷いた。
「居る。だから黙ってる。居るのに黙ってるのが、この町の怖さだ」
声を奪われて、それでもここに居続けている。逃げなかったのか、逃げられなかったのか。どちらにしても、この町の住人は——かつて住人だったものは——まだ消えていない。声がなくても、存在している。札を揺らすだけの力が、まだ残っている。
あさひは剣に手を置き、音の方向へ身体を向けた。
抜かない。布に包んだまま構える。背筋を伸ばし、呼吸を浅くして、気配だけで周囲を探っている。見えない相手に対する、あさひなりの礼儀だった。
三人は足音を殺しながら、札の揺れる方へ歩いた。
静けさが敵なら、静けさごと引き受けて進むしかない。声を出せないなら、足で語る。足音を消しながらも、一歩ずつ確かに石畳を踏む。ここを通ったという事実を、石に刻むように。
こよいの巾着が、かすかに温かくなった。
名前たちも、この町の恐怖を感じ取っている。それでも脈打つことをやめない。
その小さな鼓動が、こよいの足を前に出した。
町の奥から、もう一枚の札が揺れる音が聞こえた。
おたまは井戸の木札の下で座り、小鈴を鳴らさず尾だけを石へ打った。奥の札が同じ間で揺れる。声を奪われた住人たちは、猫の無音の合図なら観測の記録にされず返せるらしい。
町名を訊くことはしなかった。久遠は札の揺れと井戸の位置を余白へ記す。名を声にできる日まで、外海区画の「声なき井戸町」という仮称だけを三人の記憶に置いた。




