↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第15章 潮の外縁

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
441/500

第441話 町の静けさ

挿絵(By みてみん)


町は静かだった。

 静かすぎて、足音(あしおと)が悪目立ちする。石畳(いしだたみ)を踏むたびに、硬い反響(はんきょう)が通りの両側の壁に跳ね返り、増幅されて戻ってくる。自分たちの足音(あしおと)だけが、この町に存在する唯一の音(おと)だった。

 家はある。窓もある。灯(ひ)も点(つ)いている。

 なのに、人の気配がない。犬の鳴き声も、鍋の音(おと)も、咳払(せきばら)いもない。窓の向こうに揺れる灯(ひ)は、誰かが灯(とも)したのではなく、消す者がいなくなっただけに見えた。灯心(とうしん)が燃え尽きるまで、ただ灯(とも)り続けている。

 生活(せいかつ)の音(おと)だけが、きれいに取り除かれている。


 こよいは息を吸った。

 空気が薄い。肺に入る量はいつもと同じはずなのに、何かが足りない。音(おと)が吸われる空気だ。声を出せば、その声も吸い取られてしまいそうな、そういう重さが鼻腔(びこう)の奥に広がっていた。

 壁の漆喰(しっくい)は灰色に褪(あ)せ、ところどころ剥(は)がれた跡が黒い下地を見せている。軒下(のきした)に干された布が、風もないのに微かに揺れていた。揺れているのに音(おと)がしない。それが、この町の異様さを一番よく伝えていた。


 久遠(くおん)が声を低くして言った。


 「……観測(かんそく)が、町を黙らせた」


 「黙らせる?」


 「声は記録(きろく)になる。記録(きろく)は追跡できる。だから、声を奪う」


 久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が町並みを走査(そうさ)している。蒼光(そうこう)が壁の表面をなぞり、窓枠(まどわく)の木目(もくめ)を照らし、石畳(いしだたみ)の継ぎ目を追う。読み取れるものを探しているのだろう。けれど蒼い光は何にも引っかからず、滑るように町の奥へ消えていった。声を奪われた町は、記録(きろく)も拒んでいる。


 あさひが鼻を鳴らす。


 「卑怯(ひきょう)だな」


 短い言葉に、怒りが滲(にじ)んでいた。あさひの手が大剣の柄(つか)を握り、離し、また握る。斬る相手がいないことへの苛立ちが、その反復に出ていた。声を奪うという行為は、あさひにとって最も軽蔑(けいべつ)すべきものだった。戦う前に、相手から声を取り上げる。名乗りも、叫びも、救いを求める声すらも。


 こよいは巾着(きんちゃく)を抱え、灯(ひ)の下を歩いた。

 神々の温もりが、静けさの中でやけに大きく感じる。胸元にある小さな熱源が、この町で唯一の生きた温度だった。巾着(きんちゃく)の中の名前たちは声を出さない。けれど脈動(みゃくどう)は続いている。この町の静けさに飲み込まれることなく、布の中で確かに拍動(はくどう)している。


 町の角を曲がると、井戸(いど)があった。

 石を積み上げた古い井戸(いど)。縁(ふち)の石が黒ずみ、苔(こけ)の痕跡(こんせき)だけが残っている。苔(こけ)自体はもう枯れていた。水気を失って、石の表面に灰色の染(し)みを残している。

 井戸(いど)の上に、札(ふだ)が掛かっている。

 木の札(ふだ)。紐(ひも)で縁(ふち)に吊(つ)るされている。風がないのに、微かに揺れていた。

 札(ふだ)には文字がない。表面が削られている。文字があった場所だけが、周囲よりわずかに凹(へこ)んでいた。文字を消した跡だった。でも、札(ふだ)の裏側が、微かに震えている。


 こよいは札(ふだ)に触れ、耳を近づけた。

 音(おと)はない。代わりに、胸の奥がきゅっと鳴った。指先に木の乾いた感触が伝わり、その奥に、もっと古い温度がある。名前の残熱(ざんねつ)ではない。恐怖の温度だ。誰かがこの札(ふだ)に、声を閉じ込めたのかもしれない。声を出せなくなった誰かが、最後の手段として札(ふだ)に触れ、自分の存在の痕跡(こんせき)を残そうとした。


 久遠(くおん)が言う。


 「静けさは、死じゃない。恐怖だ。恐怖が、声の代わりに残ってる」


 義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が札(ふだ)を照らした。金色の文字は浮かばない。名前はない。けれど蒼い光が札(ふだ)の木目(もくめ)に沿って震えている。恐怖が刻まれた木の繊維(せんい)が、光を乱反射(らんはんしゃ)しているのだ。


 あさひが剣の柄(つか)を叩く。硬い音が静けさを裂いた。その音(おと)は一瞬だけ通りに響き、すぐに吸い込まれて消えた。


 「恐怖なら、斬れる」


 「斬るな。ここは聞け」


 久遠(くおん)の言葉に、あさひが黙る。剣の柄(つか)から手を離しはしない。けれど力を抜いた。久遠(くおん)の判断に従うときの仕草(しぐさ)だった。聞け、と言われたから聞く。それがあさひの信頼の示し方だった。


 こよいは頷(うなず)いた。

 静けさを壊さない。壊さずに、通る。

 町の静けさは、敵の技術だった。でも、静けさの中でも歩ける、という自分たちの証明でもあった。声を奪われても、足は動く。脈は打つ。巾着(きんちゃく)の中の名前たちが黙っていても、温もりだけは伝えてくる。それで十分だった。


 町の静けさの中で、ひとつだけ音(おと)がした。

 木札(きふだ)が、かすかに擦(す)れる音(おと)。紐(ひも)が軸にこすれる、乾いた小さな音(おと)。

 こよいが振り返ると、誰もいない。でも、札(ふだ)だけが揺れている。さっきよりも大きく。風ではない。何かが、内側から札(ふだ)を押している。


 「……居る」


 こよいが言うと、久遠(くおん)が頷(うなず)いた。


 「居る。だから黙ってる。居るのに黙ってるのが、この町の怖さだ」


 声を奪われて、それでもここに居続けている。逃げなかったのか、逃げられなかったのか。どちらにしても、この町の住人は——かつて住人だったものは——まだ消えていない。声がなくても、存在している。札(ふだ)を揺らすだけの力が、まだ残っている。


 あさひは剣に手を置き、音(おと)の方向へ身体を向けた。

 抜かない。布に包んだまま構える。背筋を伸ばし、呼吸を浅くして、気配だけで周囲を探っている。見えない相手に対する、あさひなりの礼儀だった。


 三人は足音(あしおと)を殺しながら、札(ふだ)の揺れる方へ歩いた。

 静けさが敵なら、静けさごと引き受けて進むしかない。声を出せないなら、足で語る。足音(あしおと)を消しながらも、一歩ずつ確かに石畳(いしだたみ)を踏む。ここを通ったという事実を、石に刻むように。

 こよいの巾着(きんちゃく)が、かすかに温かくなった。

 名前たちも、この町の恐怖を感じ取っている。それでも脈打つことをやめない。


 その小さな鼓動(こどう)が、こよいの足を前に出した。

 町の奥から、もう一枚の札(ふだ)が揺れる音(おと)が聞こえた。


 おたまは井戸の木札の下で座り、小鈴を鳴らさず尾だけを石へ打った。奥の札が同じ間で揺れる。声を奪われた住人たちは、猫の無音の合図なら観測の記録にされず返せるらしい。


 町名を訊くことはしなかった。久遠(くおん)は札の揺れと井戸の位置を余白へ記す。名を声にできる日まで、外海区画の「声なき井戸町」という仮称だけを三人の記憶に置いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。