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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第15章 潮の外縁

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440/500

第440話 白い帯

挿絵(By みてみん)


貝(かい)の群れを離れると、石畳(いしだたみ)の先に白い帯(おび)が見えた。


 地面に張りついた白い筋。幅は人ひとり分ほど。石畳(いしだたみ)の表面を、奥行きもなく滑るように伸びている。帯(おび)の両端は霧(きり)の奥に消え、どこまで続いているのか分からない。

 石畳(いしだたみ)の色が、帯(おび)の周囲だけ抜けていた。灰色の石が白に変わり、白い石が乾いた粉のようにざらついている。触れなくても分かった。あそこに温度はない。帯(おび)の周囲の空気すらも乾き切っていて、近づくだけで唇(くちびる)の水分が引かれるような感覚があった。


 こよいは一歩近づいた。

 巾着(きんちゃく)の神々が、急に脈を速めた。布越しの温度が上がり、まるで名前たちが掌(てのひら)の中で身を縮めているようだった。


 「止まれ」


 久遠(くおん)の声は低く、鋭かった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が帯(おび)に向けられている。光が帯(おび)の表面で散乱し、跳ね返りもせず、吸い込まれるように消えた。蒼光(そうこう)を吸い込んだ帯(おび)は、一瞬だけ白さを増し、すぐに元に戻った。


 「白い帯(おび)は漂白(ひょうはく)の痕跡(こんせき)じゃない。漂白(ひょうはく)そのものだ。あの帯(おび)に触れた名前は、その場で消去(しょうきょ)される。名前だけじゃない。名前を持っていた記憶(きおく)も、名前を呼んだ声も、全部」


 こよいは足を止めた。帯(おび)の白さが、目を灼(や)くような鋭さに変わった。ただの色ではない。色の不在。白い帯(おび)を見つめていると、視界の端が薄くなっていく。帯(おび)の存在そのものが、周囲から色を引き剥(は)がしているようだった。


 「呼ぶな」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を膝(ひざ)の上に押さえつけた。頁(ページ)の端が帯(おび)に向かって引かれるように震えている。紙が帯(おび)に吸い寄せられているのだ。記録(きろく)が記録(きろく)を消す力に引かれている。


 「白い帯(おび)を呼んだ瞬間、お前の中の本当の名前も一緒に滑り落ちる。声が帯(おび)に届いた時点で、声に乗せた名前ごと持っていかれる」


 義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)がわずかに揺れた。揺れが収まるまで、三拍ほどかかった。久遠(くおん)なりの恐怖の表出(ひょうしゅつ)だった。冷たい言葉の裏側に、仲間を失うことへの怯(おび)えが潜んでいることを、こよいはもう知っている。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に引き寄せた。神々の脈動(みゃくどう)が速い。名前たちも帯(おび)を感じ取っている。恐怖ではない。もっと根の深い拒絶(きょぜつ)。あの白に触れたら自分が自分でなくなると、魂の奥で分かっている。


 こよいは唾(つば)を飲み込んだ。喉(のど)が乾いている。帯(おび)の近くにいるだけで、身体の水分が奪われていくようだった。


 「……分かってる」


 こよいは声を落とした。帯(おび)に聞かれないように。声を絞り、息の形だけで言葉を作る。


 「でも、ぼくたちの手の中には、この子たちがいる。名前を呼ばなくても、脈は伝わる。温もりは残る。思い出は消えない」


 巾着(きんちゃく)の神々が応えるように温度を上げた。掌(てのひら)から腕へ、腕から胸へ、温もりが広がる。帯(おび)の白さに対抗できるものがあるとすれば、この小さな熱だけだった。


 あさひは帯(おび)を見据えたまま、立ち位置を変えた。こよいと帯(おび)の間に、自分の身体を入れた。布包みの大剣が背中で揺れ、刀身の低い音(おと)が布越しに鳴った。


 「避けて通れるか」


 久遠(くおん)が頁(ページ)をめくった。指が震えている。帯(おび)の近くでは、目録(もくろく)の文字が滲(にじ)み始めていた。


 「左へ迂回(うかい)すれば、帯(おび)の端が途切れている場所がある。ただし遠回りになる」


 「遠回りは構わない。近道で名前を一つ失うよりはいい」


 あさひが歩き出した。帯(おび)に背を向けず、こよいを庇(かば)う位置を保ったまま、横歩きで左へ移動する。剣の柄(つか)に手を置き、帯(おび)から目を離さない。


 三人は帯(おび)を避けて歩いた。白い筋が左手に見え続けている。帯(おび)の表面が時折(ときおり)明滅するように白さを増すのは、三人の体温を感じ取っているからかもしれなかった。名前の温もりに引かれて、帯(おび)が脈打つ。捕食者(ほしょくしゃ)の呼吸(こきゅう)に似た律動(りつどう)だった。


 二十歩ほど迂回(うかい)して、帯(おび)が途切れた場所に出た。途切れた端は鋭い。まるで剃刀(かみそり)で切ったように、白と灰色の境目がくっきりしている。


 あさひが帯(おび)の端を一瞥(いちべつ)し、前を向いた。


 「進む。潮(しお)の外縁(がいえん)の先で、答えだけを引きずり出す」


 声に迷いがなかった。帯(おび)の白さを見た後でも、あさひの足取りは変わらない。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握り直した。帯(おび)は背中の方に残っている。振り返りたくなる衝動(しょうどう)を、巾着(きんちゃく)の温もりで押さえた。


 あの白い帯(おび)のことは忘れない。忘れないけれど、呼ばない。名前のない恐怖として、胸の底に沈めておく。巾着(きんちゃく)の脈動(みゃくどう)がようやく落ち着いていく。名前たちも、帯(おび)が遠ざかったことを感じ取ったのだ。布越しの温度が、元の穏やかな熱に戻っていた。足元の石畳(いしだたみ)には、灰色の色が戻り始めている。白に染められていない、ただの石の色が。


 おたまは帯へ近づかず、左の石畳を前脚で三度叩いた。小鈴の波が地下の根へ届き、白い帯の端を囲むように金色の細線が浮かぶ。帯を消せはしないが、どこまで広がっているかを根が外側から縁取った。


 次に戻るときは、逃げるためではなく、貝の残りを救うために。久遠(くおん)は捕食域の幅と、根の包囲線を、そのための地図として書き残した。勝利ではない。次への約束だった。

 目録(もくろく)の端には、「再訪時、包囲線の内側へ入らないこと」とある。帯(おび)の向こうに残した貝(かい)の数も、見えた限りで書き留めた。救うためには、まず食われない距離を守らなければならない。

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