第440話 白い帯
貝の群れを離れると、石畳の先に白い帯が見えた。
地面に張りついた白い筋。幅は人ひとり分ほど。石畳の表面を、奥行きもなく滑るように伸びている。帯の両端は霧の奥に消え、どこまで続いているのか分からない。
石畳の色が、帯の周囲だけ抜けていた。灰色の石が白に変わり、白い石が乾いた粉のようにざらついている。触れなくても分かった。あそこに温度はない。帯の周囲の空気すらも乾き切っていて、近づくだけで唇の水分が引かれるような感覚があった。
こよいは一歩近づいた。
巾着の神々が、急に脈を速めた。布越しの温度が上がり、まるで名前たちが掌の中で身を縮めているようだった。
「止まれ」
久遠の声は低く、鋭かった。義眼の蒼光が帯に向けられている。光が帯の表面で散乱し、跳ね返りもせず、吸い込まれるように消えた。蒼光を吸い込んだ帯は、一瞬だけ白さを増し、すぐに元に戻った。
「白い帯は漂白の痕跡じゃない。漂白そのものだ。あの帯に触れた名前は、その場で消去される。名前だけじゃない。名前を持っていた記憶も、名前を呼んだ声も、全部」
こよいは足を止めた。帯の白さが、目を灼くような鋭さに変わった。ただの色ではない。色の不在。白い帯を見つめていると、視界の端が薄くなっていく。帯の存在そのものが、周囲から色を引き剥がしているようだった。
「呼ぶな」
久遠が目録を膝の上に押さえつけた。頁の端が帯に向かって引かれるように震えている。紙が帯に吸い寄せられているのだ。記録が記録を消す力に引かれている。
「白い帯を呼んだ瞬間、お前の中の本当の名前も一緒に滑り落ちる。声が帯に届いた時点で、声に乗せた名前ごと持っていかれる」
義眼の蒼光がわずかに揺れた。揺れが収まるまで、三拍ほどかかった。久遠なりの恐怖の表出だった。冷たい言葉の裏側に、仲間を失うことへの怯えが潜んでいることを、こよいはもう知っている。
こよいは巾着を胸に引き寄せた。神々の脈動が速い。名前たちも帯を感じ取っている。恐怖ではない。もっと根の深い拒絶。あの白に触れたら自分が自分でなくなると、魂の奥で分かっている。
こよいは唾を飲み込んだ。喉が乾いている。帯の近くにいるだけで、身体の水分が奪われていくようだった。
「……分かってる」
こよいは声を落とした。帯に聞かれないように。声を絞り、息の形だけで言葉を作る。
「でも、ぼくたちの手の中には、この子たちがいる。名前を呼ばなくても、脈は伝わる。温もりは残る。思い出は消えない」
巾着の神々が応えるように温度を上げた。掌から腕へ、腕から胸へ、温もりが広がる。帯の白さに対抗できるものがあるとすれば、この小さな熱だけだった。
あさひは帯を見据えたまま、立ち位置を変えた。こよいと帯の間に、自分の身体を入れた。布包みの大剣が背中で揺れ、刀身の低い音が布越しに鳴った。
「避けて通れるか」
久遠が頁をめくった。指が震えている。帯の近くでは、目録の文字が滲み始めていた。
「左へ迂回すれば、帯の端が途切れている場所がある。ただし遠回りになる」
「遠回りは構わない。近道で名前を一つ失うよりはいい」
あさひが歩き出した。帯に背を向けず、こよいを庇う位置を保ったまま、横歩きで左へ移動する。剣の柄に手を置き、帯から目を離さない。
三人は帯を避けて歩いた。白い筋が左手に見え続けている。帯の表面が時折明滅するように白さを増すのは、三人の体温を感じ取っているからかもしれなかった。名前の温もりに引かれて、帯が脈打つ。捕食者の呼吸に似た律動だった。
二十歩ほど迂回して、帯が途切れた場所に出た。途切れた端は鋭い。まるで剃刀で切ったように、白と灰色の境目がくっきりしている。
あさひが帯の端を一瞥し、前を向いた。
「進む。潮の外縁の先で、答えだけを引きずり出す」
声に迷いがなかった。帯の白さを見た後でも、あさひの足取りは変わらない。
こよいは巾着を握り直した。帯は背中の方に残っている。振り返りたくなる衝動を、巾着の温もりで押さえた。
あの白い帯のことは忘れない。忘れないけれど、呼ばない。名前のない恐怖として、胸の底に沈めておく。巾着の脈動がようやく落ち着いていく。名前たちも、帯が遠ざかったことを感じ取ったのだ。布越しの温度が、元の穏やかな熱に戻っていた。足元の石畳には、灰色の色が戻り始めている。白に染められていない、ただの石の色が。
おたまは帯へ近づかず、左の石畳を前脚で三度叩いた。小鈴の波が地下の根へ届き、白い帯の端を囲むように金色の細線が浮かぶ。帯を消せはしないが、どこまで広がっているかを根が外側から縁取った。
次に戻るときは、逃げるためではなく、貝の残りを救うために。久遠は捕食域の幅と、根の包囲線を、そのための地図として書き残した。勝利ではない。次への約束だった。
目録の端には、「再訪時、包囲線の内側へ入らないこと」とある。帯の向こうに残した貝の数も、見えた限りで書き留めた。救うためには、まず食われない距離を守らなければならない。




