第442話 座標の逆流
声なき井戸町の裏手には、貝を中枢へ運んだ古い搬送線が残っていた。前章で捨てた列車へ戻ったのではない。根が空の貨車一両を動かし、外海区画から潮の外縁へ抜ける短い線路を開いたのだ。根が霧を纏わせたその一両を、三人はこれまでと同じように霧列車と呼んだ。
三人とおたまが乗ると、窓の外で景色が二重になった。
列車が走っている線路の左側に、もう一本の線路が見える。同じ方角に伸び、同じカーブを描いている。ただし、その線路の上には列車がいない。線路だけが、何もない空間を走っている。
こよいは窓に顔を近づけた。二本目の線路の枕木が、こちらの線路と寸分違わず同じ間隔で並んでいる。影まで同じだった。
「座標が二重に走ってる」
久遠が目録を開いた。頁の上で文字が震えている。いつもの震えではない。文字が二行に分裂し、同じ内容が並走するように走っている。
「書き換えだ。観測者が、俺たちが通ってきた座標を上から塗り直している。元の記録が消える前に、新しい座標が被さって、二重になってる」
「ぼくたちが今いるのは、どっちの座標?」
久遠が義眼の焦点を窓の外に合わせた。蒼光が二本の線路を交互に照らす。
「古い方だ。俺たちの足跡が刻まれている方。新しい座標は空だ。中身がない。名前も、記録も、温度も入っていない。殻だけの座標を被せて、元の道を無効にしようとしている」
窓の外で、二本目の線路がゆっくりと近づいてきた。
こよいは息を詰めた。窓硝子に吐いた息が白く曇り、二本の線路が曇りの向こうで一つに溶けかけている。二つの線路の間隔が狭まっている。枕木が重なりかけ、レールの影が一つに溶け始めていた。
「合流する」
久遠の声が硬くなった。
「新しい座標が古い座標を飲み込む。合流した瞬間、古い座標の記録は上書きされる。俺たちがここを通った事実ごと消える」
あさひが立ち上がった。
「止められるか」
「俺の目録で、古い座標の記録を写し取る。合流する前に、この頁に焼きつければ、元の記録は目録の中に残る。上書きされても、写しがある」
「やれ」
短い一語だった。声に迷いのない響きが車内の空気を震わせ、窓硝子の表面で微かに反響した。あさひは窓際に立ち、二本の線路が合流する方角を見据えた。剣の柄に手を添えている。斬れる相手ではない。それでも、身体を外に向けることで久遠の背中を守っていた。
久遠が目録の頁を大きく開いた。義眼の蒼光が一段強くなり、窓の外の景色を蒼い光で舐めるように走査する。光が触れた場所から、金色の文字が浮かび上がった。線路の枕木に刻まれた座標、レールの継ぎ目に残された通過記録、石の隙間に染みた温度の痕跡。
久遠の指が頁の上を走る。蒼い光が拾い上げた記録を、一つずつ紙に写していく。文字が紙に焼きつくたびに、目録の頁が微かに熱を帯びた。
二本の線路が、あと数歩分の距離まで近づいていた。
こよいは巾着を胸に押し当てた。神々の脈動が不安定になっている。二重の座標に挟まれて、名前たちが方角を見失いかけていた。
「大丈夫。ここにいるよ」
小さく言った。巾着に向かって。名前たちに向かって。神々が一度だけ強く脈打ち、脈動が元のリズムに戻った。こよいの声が、座標の代わりになった。
線路が重なった。
車内が一瞬だけ白く光り、窓の外の景色がぶれた。レールの軋みが高くなり、床が跳ねるように揺れた。
光が収まったとき、窓の外には線路が一本だけ残っていた。
新しい方だ。古い線路は消えている。枕木も、レールも、影も、すべて新しい座標に塗り替えられていた。
久遠が目録を閉じた。額に薄く汗が浮いている。
「間に合った。古い座標の記録は、この頁に全部写してある。上書きされたのは外だけだ。俺たちの目録の中には、元の道が残っている」
あさひが窓の外を一瞥した。
「向こうは消した。こっちは残した。これで帳尻は合うか」
「合わない。向こうはまたやる。だが、やるたびに俺が写す。消す速度より、写す速度が勝てばいい」
久遠が目録の表紙を撫でた。紙の温度がまだ高い。記録を焼きつけた熱が、残っている。
こよいは窓の外を見た。新しい座標の上を、列車が走っている。景色は同じに見える。けれど、足元の記録は違う。今走っている線路には、三人の足跡がない。
巾着を握り直した。足跡は消されても、名前は消えていない。目録の中に道がある。それで十分だった。
窓の外を風が吹いた。新しい座標の風は、古い座標の風より薄い。匂いがない。記憶を含まない、空白の風だった。
列車は、書き換えられた座標の上を、それでも前へ走り続けた。
おたまが後ろ向きに流れる古い線路へ小鈴を鳴らすと、目録へ写した座標が同じ拍で光る。空の座標には反響がない。消される前の道を音でも選別できたため、久遠は数字だけでなく鈴の拍を検算に使った。
数字だけでは、生きた道と死んだ道は見分けきれない。おたまの小鈴が刻む拍が、久遠の座標検算に、もう一つの確かさを添えていた。書き換えられた地図の上でも、猫の耳だけは欺けなかった。




