第436話 露岬の朝
夕暮れに露岬の仮停車場で列車を降り、三人とおたまは岩陰に毛布を敷いて夜を越した。
夜明け前に目が覚めた。
こよいは毛布を肩に巻いたまま、露岬の岩場に座っていた。東の空が薄く青み始めている。星がひとつ、ふたつと消え、代わりに海面が白く光り始めた。
空気が重い。水を含んだ空気が、肌に貼りつくように纏わりついている。息を吸うと、喉の奥まで湿った冷たさが届いた。
露岬。
名前の通り、岬全体が露に覆われている。
岩の表面に、水滴が密集していた。触れると指先が濡れる。だが、普通の露ではなかった。日が昇り始めても、水滴は蒸発しない。岩肌に張りつき、光を受けて虹色に揺れている。
久遠が先に起きていた。目録を膝に置き、岩壁に顔を近づけている。義眼の蒼い光が、露の粒を一つずつ照らしていた。
「起きたか」
「……うん。久遠、何を見てるの」
久遠は岩壁から顔を離さず、指先で露の粒を辿った。
「文字だ」
こよいは毛布を落とし、久遠の隣に膝をついた。
岩壁の露が、模様を描いている。水滴の大きさと間隔が不均一で、密集した場所と疎な場所がある。遠くから見れば単なる露の集まりだが、近づくと、その濃淡が文字の形をしていた。
「……名前だ」
「夜の間に現れる。岬の露が、消えた名前の痕跡を写し取っている。だが、午後には消える。露が乾くのではなく、文字の形が崩れて、ただの水滴に戻る」
久遠は目録を開き、見える文字を書き写し始めた。筆を走らせる手が速い。朝の光が強くなるにつれ、露の文字は輪郭を失っていく。
「急がないと間に合わない」
こよいは別の岩壁に移り、目を凝らした。
露の文字は至るところにあった。地面の石にも、枯れた木の幹にも、崖の表面にも。露岬全体が、夜の間に文字で覆われ、昼には消えるという呼吸を繰り返しているのだ。
あさひが岩陰から現れた。大剣を背負い、水筒を手にしている。
「朝飯の前に動くのか」
「消える前に写さないと。この文字は昼には持たない」
あさひは水筒の蓋を閉め、周囲に目を配りながら二人の傍に立った。
こよいは石壁の前にしゃがみ込んだ。
壁の一角に、他より鮮明な文字列があった。露の粒が大きく、間隔が整っている。まるで、誰かが意図して書いたかのように、一つの名前が浮かび上がっていた。
ひらがな三文字。
こよいは口の中で、その名を読んだ。声には出さない。だが、読んだ瞬間、巾着が反応した。
布の内側で、一つの名前が震えている。二十七の脈のうち、ひとつが、壁の露の名前に向かって引かれるように動いた。
「……知ってる」
こよいは巾着を壁に近づけた。
「この名前、巾着の中の名前が知ってる。呼んでる」
久遠が筆を止め、振り向いた。
「呼んでいる?」
「引っ張られる感じがする。この壁の名前と、ぼくの中にいる名前が、お互いを覚えてる」
久遠は義眼を細め、壁の露を見つめた。
「生前の繋がりだろう。神として在った頃に、隣り合っていた存在だ。地域の社で共に祀られていたか、同じ山系の神々だったか」
壁の露が、少しだけ光った。
朝日が差し込んだせいかもしれない。だが、こよいには、名前が応えたように見えた。
「……採れるか」
あさひが壁を見た。
「分からない。露だから、触れたら崩れるかもしれない」
こよいは指先を壁に近づけた。
震える手で、露の文字に触れる。水滴が指先に移り、冷たさが走った。だが、文字は崩れなかった。指先から巾着へ、水の膜を通じて何かが流れ込む。
巾着が鳴った。
低く、長い音。歓迎でも警告でもない。再会の音だ。
こよいは指を壁から離した。露の文字は薄くなり、やがて水滴に戻った。名前は壁から消えたが、巾着の中で、二つの名前が寄り添うように震えていた。
「……入った?」
「入ったのとは違う。でも、繋がった。この名前は、まだ露岬のどこかにいる。壁に写っているだけで、本体は別の場所にある」
久遠が目録に書き加えた。
「露は鏡だ。岬全体が、消えた名前を夜ごとに映し出す鏡になっている。本体を見つけるには、もう少し奥へ行く必要がある」
朝日が岬を照らし始めた。
岩壁の露が輝き、一瞬だけ文字の群れが金色に浮かび上がった。数十、数百の名前が、岬の至るところで最後の光を放ち、やがて溶けるように消えていく。
こよいは息を止めて見つめた。
消えていく名前の群れ。昼には痕跡すら残らない。だが、夜が来れば、露はまた文字を結ぶ。岬は忘れない。水滴の形で、毎夜、名前を呼び戻している。
あさひが背を向け、歩き始めた。
「飯にしよう。腹が減っては名前も拾えない」
こよいは苦笑し、巾着を胸に抱いて立ち上がった。
露岬の朝が、ゆっくりと明けていく。石の表面から最後の一滴が光を失い、ただの水に戻った。
潮風が、三人の髪を揺らした。
おたまが露の名を追って岩壁の割れ目へ入り、小鈴を鳴らした。返事は岬の地下深くから届く。本体へ続く入口は見つかったが、潮が満ち始め、今日ここから降りることはできない。久遠は入口の形、満潮時刻、再会の脈を目録へ残した。
探索を捨てるのではない。島影の道を確保してから、干潮に戻る。こよいは繋がった一脈へそう約束した。三人とおたまは仮停車場へ戻り、待っていた霧列車に再乗車した。




