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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第14章 風の残像

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435/438

第435話 海の境界

挿絵(By みてみん)


海の色が、途中で切れていた。


 こよいは列車(れっしゃ)の窓枠(まどわく)に額(ひたい)を寄せ、目を細めた。左手に広がる海面は、深い藍色をしている。波が立ち、白い飛沫(しぶき)が風に散る。潮(しお)の匂いが車窓の隙間(すきま)から流れ込み、鼻腔(びこう)を刺した。

 だが、沖のある一線を境に、海は別の顔をしていた。

 藍色が消え、白濁(はくだく)した水が広がっている。波がない。光の反射もない。まるで色を抜かれた布のように、水面が平坦(へいたん)に凪(な)いでいる。


 「……あれ、何だろう」


 「漂白前線(ひょうはくぜんせん)だ」


 久遠(くおん)が窓際に立ち、義眼(ぎがん)の蒼い光を細めた。目録(もくろく)を開き、頁(ページ)を繰る指が止まる。


 「海にも境界(きょうかい)がある。名前が保存されている領域(りょういき)と、消去(しょうきょ)された領域(りょういき)の境目だ。あの白い水は、名を失った海域(かいいき)だよ」


 こよいは窓の外を見つめた。

 藍色の海面で、魚が跳ねた。銀色の鱗(うろこ)が陽光を弾き、水飛沫(みずしぶき)とともに空中で弧(こ)を描く。一瞬の輝きの後、魚は藍色の水へ戻る。

 何匹も跳ねている。だが、どの魚も白い水の側へは飛ばない。弧(こ)の頂点が境界線(きょうかいせん)の手前で止まり、必ず藍色の側へ落ちる。


 「……魚も、分かってるんだ」


 あさひが窓枠(まどわく)に肘を置き、目を眇(すが)めた。


 「分かってるんじゃねえ。身体が拒んでいる。あっち側は、生きてる水じゃないんだろう」


 久遠(くおん)が頷(うなず)いた。


 「正確には、水としての名を失っている。H₂Oという物質は残っているが、海としての性質が抜かれている。だから波も立たないし、魚も入らない」


 列車(れっしゃ)が海岸線に沿ってゆるく曲がった。車輪がレールの継ぎ目を踏み、車体が微かに傾(かし)ぐ。

 窓の角度が変わり、境界線(きょうかいせん)が正面に見える位置になった。こよいは息を呑(の)んだ。

 線は、どこまでも真っ直ぐだった。定規で引いたように、藍と白が分かれている。自然の境界(きょうかい)ではない。何者かが意図して引いた線だ。


 巾着(きんちゃく)が、低く震えた。

 神々の脈動(みゃくどう)が速くなっている。こよいは布越しに巾着(きんちゃく)を押さえた。中の名前たちが、白い海に反応している。


 「……怖がってる」


 「怖がるのが正しい。あの白い水に落ちた名前は、戻ってこない」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)の頁(ページ)を指で押さえながら言った。義眼(ぎがん)の光が、わずかに揺れている。


 「漂白前線(ひょうはくぜんせん)は、ゆっくり動いている。数年前の記録(きろく)では、もっと沖にあったはずだ。つまり、白い領域(りょういき)は広がっている」


 久遠(くおん)の声が低くなった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、頁(ページ)の数値を照らしている。


 こよいは唇を噛(か)んだ。指先が窓枠(まどわく)を握り締め、爪の先が白くなった。

 海が、消されている。波も、潮(しお)も、魚も、すべてを含んだ海という名前ごと、白く塗り潰(つぶ)されている。


 列車(れっしゃ)が次の岬(みさき)を回った瞬間、こよいは窓に顔を押しつけた。

 藍色の海面に、何かが浮上した。白い水柱が噴き上がり、陽光の中で金色に散る。鯨(くじら)の潮吹(しおふ)きに似ているが、水ではなかった。光だ。金色の光の粒子(りゅうし)が海面を割って噴き出し、弧(こ)を描いて沈んでいく。


 「名前の根だ」


 久遠(くおん)が窓に寄った。


 「地下の根脈(こんみゃく)が、海底にも伸びている。あの光は、島と島を繋(つな)ぐ根の呼吸(こきゅう)だ」


 光の柱は、間隔(かんかく)を置いて何度も噴き上がった。遠くの島影(しまかげ)から手前の海岸まで、点々と金色の飛沫(しぶき)が連なっている。

 海の底に、道がある。

 名前の根が、島と島を繋(つな)ぎ、海底を走っている。白い漂白(ひょうはく)の水が広がっても、根だけは消えていない。


 あさひが窓の外を見ながら、小さく口を開いた。


 「……あの光は、抵抗してるのか」


 「抵抗かは分からない。だが、残っている。漂白(ひょうはく)が届かない深さに、根が走っている」


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。

 神々の震えが、少しだけ落ち着いた。海の底で、まだ名前が生きている。根が繋(つな)がっている。消されていない部分が、確かにある。


 列車(れっしゃ)は海岸線を離れ、露岬(つゆみさき)へ入る支線へ向かい始めた。日没前に岬の足場へ着き、翌朝の露を調べるため野営する。久遠(くおん)が次の停車と行程を告げた。


 おたまが窓の藍側へ前脚を置くと、魚の群れが小鈴の影を追って境界まで来た。白側へは一尾も越えない。生き物の身体が拒む線と、海底の根が押し返す線が同じ位置にあることを、猫と魚が示した。

 窓の外から海が遠ざかり、藍と白の境界線(きょうかいせん)が細い糸のように見えるようになった。やがて丘の稜線(りょうせん)に隠れ、海は見えなくなった。


 潮(しお)の匂いだけが、車内に残っていた。


 こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を握り直した。

 境界(きょうかい)は、海にもある。空にも、地にも、この列車(れっしゃ)が走る線路の上にも。どこを見ても、保存と消去の線が引かれている。


 その線の内側で、名前たちは息をしている。


 白い海が広がる速度より先に、露岬で海底の根の呼吸を読み取らなければならない。次の停車が、ただの休息ではなく前線を測る期限になった。

 こよいは目を閉じ、巾着(きんちゃく)の温もりに耳を澄(す)ませた。二十七の脈が、布の内側で静かに打っている。その一つ一つの拍(はく)が異なる速さで、けれど決して乱れることなく重なり合い、小さな合奏(がっそう)のように胸に響いていた。まだ、ここにいる。

 その二十七の脈の一つ一つが、かつて誰かを呼ぶための音だった。こよいは名前たちの寝息に自分の呼吸を合わせ、抱えているものの重さと温かさを、同時に感じた。まだ、ここにいる。全員、ここにいる。

 次の停車は、ただの休息ではない。露岬(つゆみさき)で海底の根の呼吸を読み取る、期限つきの一手だった。こよいは温もりを胸に、その時に備えて目を閉じた。

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