第430話 島の匂い
匂いが先に来た。
窓を閉めていたはずなのに、車内に潮の気配が滲み込んでいた。
塩と海藻の生臭さ。
その下に、硫黄の鋭い刺激が混じっている。
こよいは鼻を押さえた。
「……なにか、近い」
久遠は窓の曇りを袖で拭った。
霧の向こうに、黒い塊が浮かんでいた。
島だった。
海面から突き出した岩肌は苔と潮錆に覆われ、頂上付近から細い白煙が立ち上っている。
火山性の島。
こよいが見た最初の島だった。
「止まってる」
あさひが窓に寄り、目を細めた。
島は波に揺られていない。
海面に縫い止められたように、微動だにしない。
霧が流れ、列車が動いているはずなのに、島だけが同じ位置に留まり続けていた。
久遠が目録を開いた。
頁を何枚かめくり、止まった。
「……ない」
「ないって?」
「この島が載ってない。現行の海図にも、目録の座標一覧にも、該当する陸地がない」
久遠は義眼の焦点を頁と島の間で往復させた。
「だが物理的にはそこにある。霧も島を避けて流れてるし、波が岩に砕けてる音も聞こえる。実在してるのに、記録から消されてる」
こよいは窓硝子に額をつけて、島を見つめた。硝子が冷たく、額に潮気を帯びた結露が伝った。
霧の切れ間から、島の側面が見えた。
断崖。
垂直に近い岩壁が海面から立ち上がり、灰色の岩肌にびっしりと何かが刻まれていた。
「久遠くん、あの崖」
「見えてる」
久遠は義眼を全開にした。
蒼光が窓硝子を透過し、霧を貫いて島の断崖に届いた。
文字だった。
崖の表面に、無数の名前が彫り込まれていた。
大小さまざまな書体。
鑿で深く刻んだもの、指先で浅くなぞったもの、墨で書いて風雨に半ば消されたもの。
崖全体が名前の台帳のようだった。
「……名前だ。島の崖に名前が彫ってある」
こよいの声が震えた。
久遠は義眼の蒼光を細く絞り、一つひとつの名前を読み取ろうとした。
「古い。書体が漂白以前のものだ。観測者が記録を管理する前の時代に、誰かがここに名前を預けたんだ」
「預けた?」
「逃がしたんだろう。漂白が始まる前に、消されることを予感した名前たちが、記録の外にある場所を探して、この島に辿り着いた。だから地図から消された。地図にあれば、観測者に見つかるからな」
こよいは巾着を胸に引き寄せた。
中の神々が微かに温まっている。
崖に刻まれた名前たちに、反応しているのだろうか。布越しの脈動がいつもより深く、ゆっくりとしていた。まるで、遠い場所にいる仲間に呼びかけるように、一拍一拍に力を込めている。
あさひが窓枠に手を置いたまま言った。
「あいつら、まだ生きてるのか」
「名前としては残ってる。だが主がない。主を失った名前が岩に刻まれたまま、何百年も風に晒されてる」
久遠は目録を閉じた。
目録に載っていない島を、目録で調べることはできない。
列車は島の脇を通過し続けていた。
匂いが濃くなった。
硫黄と潮と、もう一つ。
甘い匂い。
花でも果実でもない、名前が長い時間をかけて発酵したような、古い甘さだった。
こよいは窓に手を当てた。
硝子越しに、崖の名前たちの気配が伝わってくる。
呼んでいるのではない。
ただ、そこにいる。
記録から消されても、岩に刻まれた痕跡は消えない。
「……拾えるの?」
こよいが訊いた。
久遠は首を横に振った。
「列車は止まらない。この島には停車場がない。地図にないから、路線にも含まれてない」
「でも、あの名前たちは」
「分かってる」
久遠の声が、わずかに詰まった。
島が霧の中に遠ざかっていく。
断崖の輪郭がぼやけ、刻まれた名前たちの一文字一文字が霧に呑まれていく。
匂いが薄れていく。
最後に見えたのは、崖の一番高い場所に刻まれた大きな一文字だった。
久遠の義眼でも読み取れないほど古い書体で、風に削られて輪郭だけが残っていた。
こよいは巾着の口を押さえた。
神々が一度だけ強く脈打ち、静かになった。
島は霧に呑まれた。
匂いだけが、しばらく車内に残った。潮と硫黄と、あの古い甘さが、座席の布地に染み込むように漂っていた。
おたまは島が消えた霧へ鼻を向け、座席の端で小鈴を鳴らした。目録には島を描けないが、鈴の余韻が戻る時間と硫黄の濃さは記録できる。久遠は大きな一文字の輪郭とともに、再接近するための匂いの座標を残した。
止まれなかったことを、見失ったことにはしない。その一文字が誰を預かった印なのか、経蔵の原本で照合する項目に加えた。
匂いもまた、道になった。
匂いもまた、道になる。目が利かなくても、記録が消えても、鼻の奥に残る記憶が方角を示す。あさひの鼻と、おたまの足が、三人を確かな一歩へ導いていった。記録の消える世界で、身体が覚えているものだけは、最後まで裏切らない。世界は、まだ三人を見放してはいなかった。
あさひが鼻先で風上を確かめ、迷いなく歩き出す。その背を、こよいとおたまが追った。道は、まだ続いている。
匂いを辿る旅は、目で見る旅よりも、ずっと正直だった。嘘の道標は、匂いまでは真似できない。




