↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第14章 風の残像

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
430/438

第430話 島の匂い

挿絵(By みてみん)


匂いが先に来た。


 窓を閉めていたはずなのに、車内に(しお)の気配が滲み込んでいた。

 塩と海藻(かいそう)生臭(なまぐさ)さ。

 その下に、硫黄(いおう)の鋭い刺激(しげき)が混じっている。


 こよいは鼻を押さえた。


 「……なにか、近い」


 久遠(くおん)は窓の(くも)りを(そで)(ぬぐ)った。

 (きり)の向こうに、黒い(かたまり)が浮かんでいた。


 島だった。


 海面から突き出した岩肌(いわはだ)(こけ)潮錆(しおさび)(おお)われ、頂上付近から細い白煙が立ち上っている。

 火山性の島。

 こよいが見た最初の島だった。


 「止まってる」


 あさひが窓に寄り、目を細めた。


 島は波に揺られていない。

 海面に()い止められたように、微動だにしない。

 (きり)が流れ、列車(れっしゃ)が動いているはずなのに、島だけが同じ位置に留まり続けていた。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を開いた。

 (ページ)を何枚かめくり、止まった。


 「……ない」


 「ないって?」


 「この島が()ってない。現行の海図(かいず)にも、目録(もくろく)座標(ざひょう)一覧にも、該当する陸地がない」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)の焦点を(ページ)と島の間で往復させた。


 「だが物理的にはそこにある。(きり)も島を避けて流れてるし、波が岩に砕けてる(おと)も聞こえる。実在してるのに、記録(きろく)から消されてる」


 こよいは窓硝子(まどがらす)(ひたい)をつけて、島を見つめた。硝子(ガラス)が冷たく、(ひたい)潮気(しおけ)を帯びた結露(けつろ)が伝った。

 (きり)の切れ間から、島の側面が見えた。

 断崖(だんがい)

 垂直(すいちょく)に近い岩壁(がんぺき)が海面から立ち上がり、灰色の岩肌(いわはだ)にびっしりと何かが刻まれていた。


 「久遠(くおん)くん、あの(がけ)


 「見えてる」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を全開にした。

 蒼光(そうこう)窓硝子(まどがらす)を透過し、(きり)を貫いて島の断崖(だんがい)に届いた。


 文字だった。


 (がけ)の表面に、無数の名前が彫り込まれていた。

 大小さまざまな書体。

 (のみ)で深く刻んだもの、指先で浅くなぞったもの、(すみ)で書いて風雨に半ば消されたもの。

 崖全体が名前の台帳(だいちょう)のようだった。


 「……名前だ。島の(がけ)に名前が彫ってある」


 こよいの声が震えた。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)を細く絞り、一つひとつの名前を読み取ろうとした。


 「古い。書体が漂白(ひょうはく)以前のものだ。観測者(かんそくしゃ)記録(きろく)を管理する前の時代に、誰かがここに名前を預けたんだ」


 「預けた?」


 「逃がしたんだろう。漂白(ひょうはく)が始まる前に、消されることを予感した名前たちが、記録(きろく)の外にある場所を探して、この島に辿(たど)り着いた。だから地図(ちず)から消された。地図(ちず)にあれば、観測者(かんそくしゃ)に見つかるからな」


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に引き寄せた。

 中の神々が微かに温まっている。

 崖に刻まれた名前たちに、反応しているのだろうか。布越しの脈動(みゃくどう)がいつもより深く、ゆっくりとしていた。まるで、遠い場所にいる仲間に呼びかけるように、一拍一拍に力を込めている。


 あさひが窓枠(まどわく)に手を置いたまま言った。


 「あいつら、まだ生きてるのか」


 「名前としては残ってる。だが(あるじ)がない。(あるじ)を失った名前が岩に刻まれたまま、何百年も風に(さら)されてる」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じた。

 目録(もくろく)に載っていない島を、目録(もくろく)で調べることはできない。


 列車(れっしゃ)は島の脇を通過し続けていた。

 匂いが濃くなった。

 硫黄(いおう)(しお)と、もう一つ。

 甘い匂い。

 花でも果実でもない、名前が長い時間をかけて発酵(はっこう)したような、古い甘さだった。


 こよいは窓に手を当てた。

 硝子(ガラス)越しに、崖の名前たちの気配が伝わってくる。

 呼んでいるのではない。

 ただ、そこにいる。

 記録(きろく)から消されても、岩に刻まれた痕跡(こんせき)は消えない。


 「……拾えるの?」


 こよいが訊いた。


 久遠(くおん)は首を横に振った。


 「列車(れっしゃ)は止まらない。この島には停車場(ていしゃじょう)がない。地図(ちず)にないから、路線にも含まれてない」


 「でも、あの名前たちは」


 「分かってる」


 久遠(くおん)の声が、わずかに詰まった。


 島が(きり)の中に遠ざかっていく。

 断崖(だんがい)輪郭(りんかく)がぼやけ、刻まれた名前たちの一文字一文字が(きり)()まれていく。

 匂いが薄れていく。

 最後に見えたのは、崖の一番高い場所に刻まれた大きな一文字だった。

 久遠(くおん)義眼(ぎがん)でも読み取れないほど古い書体で、風に削られて輪郭(りんかく)だけが残っていた。


 こよいは巾着(きんちゃく)の口を押さえた。

 神々が一度だけ強く脈打ち、静かになった。


 島は(きり)()まれた。

 匂いだけが、しばらく車内に残った。(しお)硫黄(いおう)と、あの古い甘さが、座席の布地に染み込むように(ただよ)っていた。


 おたまは島が消えた霧へ鼻を向け、座席の端で小鈴を鳴らした。目録には島を描けないが、鈴の余韻が戻る時間と硫黄の濃さは記録できる。久遠(くおん)は大きな一文字の輪郭とともに、再接近するための匂いの座標を残した。


 止まれなかったことを、見失ったことにはしない。その一文字が誰を預かった印なのか、経蔵の原本で照合する項目に加えた。

 匂いもまた、道になった。

 匂いもまた、道になる。目が利かなくても、記録が消えても、鼻の奥に残る記憶が方角を示す。あさひの鼻と、おたまの足が、三人を確かな一歩へ導いていった。記録の消える世界で、身体が覚えているものだけは、最後まで裏切らない。世界は、まだ三人を見放してはいなかった。

 あさひが鼻先で風上を確かめ、迷いなく歩き出す。その背を、こよいとおたまが追った。道は、まだ続いている。

 匂いを辿る旅は、目で見る旅よりも、ずっと正直だった。(うそ)道標(みちしるべ)は、匂いまでは真似できない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。