↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第14章 風の残像

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
426/438

第426話 次の潮音

挿絵(By みてみん)


最初に聞こえたのは、遠い呼吸(こきゅう)だった。


 列車(れっしゃ)の揺れの合間に、低い音(おと)が混じった。規則的(きそくてき)で、けれど機械的ではない。吸って、吐いて、また吸う。その間隔(かんかく)がゆっくりと変わる。生きている音(おと)だった。


 「波だ」


 あさひが顔を上げた。窓の外を見ている。こよいも耳を澄(す)ませた。確かに聞こえる。水が岩に当たり、引き、また押し寄せる音(おと)。


 波の音(おと)だった。


 けれど、こよいが知っている波の音(おと)とは違った。普通の波は、ざあっと押し寄せて、さらさらと引く。これは違う。押し寄せるときに声がある。引くときに、何かを残していく気配がある。


 通風口(つうふうこう)から、塩の匂いが入ってきた。


 それまでの空気とはまるで違った。乾いた砂(すな)の匂い、枯れた草の匂い、霧(きり)の湿り気。南部を走っている間ずっと纏(まと)わりついていたそれらが、一斉に薄くなった。代わりに、潮(しお)の匂いが入り込んでくる。重たい、しょっぱい、けれどどこか懐かしい匂い。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。頁(ページ)をめくる指が、少し速い。


 「海域(かいいき)に入る。目録(もくろく)の区分が変わった。南部内陸圏から、沿海遷移帯(えんかいせんいたい)に移行している」


 窓の外の景色が変わり始めていた。砂(すな)の平原が途切れ、地面に黒い岩が露出し始めた。岩は角張っていて、表面が潮(しお)で磨(みが)かれたように滑らかだった。岩と岩の間に水たまりがあり、列車(れっしゃ)が通過するたびに水面が揺れた。


 こよいが窓に張りついた。岩の色が面白かった。黒い岩の表面に、白い線が走っている。潮(しお)の跡だった。波が何百年もかけて岩を削り、塩を残し、その繰り返しが白い縞模様(しまもよう)を作っていた。


 あさひが窓を開けた。


 塩風が車内に吹き込んだ。あさひは風を顔に受け、口を動かした。空気を噛(か)むように。


 「味が違う。今までの空気には味が無かった。これは、塩っぱい」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)の頁(ページ)を指で押さえた。


 「沿海遷移帯(えんかいせんいたい)の特徴だ。内陸の漂白(ひょうはく)は名前を消すが、海に近い領域(りょういき)では漂白(ひょうはく)の進行が遅い。潮(しお)が名前を運ぶからだ。波が打ち寄せるたびに、海底に沈んだ名前の欠片(かけら)が岸に打ち上げられる。漂白(ひょうはく)が消す速度と、潮(しお)が運ぶ速度が拮抗(きっこう)している」


 こよいは耳を傾けた。


 波の音(おと)が近くなっていた。押し寄せる音(おと)の中に、かすかに高い音(おと)が混じっている。金属とも石ともつかない、澄んだ音(おと)。水の中で何かが転がるような音(おと)だった。


 「聞こえる。波の中に、何か混じってる」


 「名前の欠片(かけら)だ。海底に沈んだ名前が、波に洗われて岸に打ち上げられるとき、欠片(かけら)同士がぶつかって音(おと)を出す。貝殻(かいがら)が鳴るのと同じ原理だ」


 こよいは目を閉じた。


 波の音(おと)を聴いた。寄せて、返して、寄せて。その呼吸(こきゅう)のような律動(りつどう)の中に、小さな名前たちの声が混じっている。ぶつかり合い、転がり、また波に攫(さら)われ、また打ち上げられる。


 巾着(きんちゃく)が穏やかに脈打った。布が温かい。海から聞こえる名前たちの気配に、中の名前たちが応えている。


 「この先に、町はあるの」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)をめくった。


 「海図(かいず)の町、という記録(きろく)がある。海に面した集落(しゅうらく)で、名前の漁(りょう)を行っていたらしい。波が運んでくる名前の欠片(かけら)を拾い集めて、繋(つな)ぎ合わせる。内陸の井戸(いど)や泉(いずみ)とは違う方法で、名前を守ってきた土地だ」


 あさひが窓から身を引いた。潮風で頬(ほお)が赤くなっている。


 「漁(りょう)か。剣で斬(き)るもんじゃねえな」


 「斬(き)るものでも、読むものでもない。拾うものだ」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。表紙に潮(しお)の飛沫(しぶき)が細かい粒となって付き、革の表面が僅かに湿っていた。


 「海の名前は、待つことで集まる。波が運んでくるのを待ち、岸で拾う。俺たちがこれまでやってきた方法とは、根本的に違う」


 列車(れっしゃ)が岬(みさき)を回った。


 窓の外に、海が見えた。灰色の水平線(すいへいせん)が、霧(きり)の向こうに長く伸びていた。空と海の境目が滲(にじ)んでいて、どこまでが水でどこからが空なのか判然としない。けれど波は確かにあった。白い波頭が立ち、岩に砕け、飛沫(しぶき)が霧(きり)に混じっていく。


 波の音(おと)が車内を満たした。呼吸(こきゅう)のような律動(りつどう)が、列車(れっしゃ)の揺れに重なった。車輪の刻むリズムと、波が岸を打つリズムが交差し、そのずれが奇妙な和音を作っていた。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸の前に掲げた。海に向かって。波が運んでくる名前たちに向かって。


 「聞こえるよ」


 小さく言った。


 波が返事のように、一つ高い音(おと)を立てた。岸のどこかで、名前の欠片(かけら)が転がった音(おと)だった。潮風がこよいの髪を攫(さら)い、塩の粒が唇(くちびる)に触れた。


 おたまが窓辺へ跳び乗り、波が高く砕けるたびに耳を動かした。小鈴と同じ高さの音が沖から返ると、巾着の二十七の脈も穏やかに揃う。欠片同士がぶつかる音を、猫が先に聞き分けていた。


 久遠(くおん)は沿海遷移帯を地名ではなく、潮が名前を岸へ返す範囲を示す区分として目録に注記した。「海図の町」も正式名ではない。名を失った漁師たちが自分たちの役目を呼ぶために残した通称だった。

 地図にない呼び名でも、その働きと記憶は今も海辺に残っている。

 地図から消された呼び名でも、海辺の岩や潮の匂いが、それを覚えている。土地そのものが記憶の器(うつわ)なのだと、こよいはこの旅で、何度も教えられていた。

 土地が覚えているなら、いつか読み返せる。こよいは海辺の岩に手を触れ、そこに刻まれた見えない記憶を、指先で確かめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。