第426話 次の潮音
最初に聞こえたのは、遠い呼吸だった。
列車の揺れの合間に、低い音が混じった。規則的で、けれど機械的ではない。吸って、吐いて、また吸う。その間隔がゆっくりと変わる。生きている音だった。
「波だ」
あさひが顔を上げた。窓の外を見ている。こよいも耳を澄ませた。確かに聞こえる。水が岩に当たり、引き、また押し寄せる音。
波の音だった。
けれど、こよいが知っている波の音とは違った。普通の波は、ざあっと押し寄せて、さらさらと引く。これは違う。押し寄せるときに声がある。引くときに、何かを残していく気配がある。
通風口から、塩の匂いが入ってきた。
それまでの空気とはまるで違った。乾いた砂の匂い、枯れた草の匂い、霧の湿り気。南部を走っている間ずっと纏わりついていたそれらが、一斉に薄くなった。代わりに、潮の匂いが入り込んでくる。重たい、しょっぱい、けれどどこか懐かしい匂い。
久遠が目録を開いた。頁をめくる指が、少し速い。
「海域に入る。目録の区分が変わった。南部内陸圏から、沿海遷移帯に移行している」
窓の外の景色が変わり始めていた。砂の平原が途切れ、地面に黒い岩が露出し始めた。岩は角張っていて、表面が潮で磨かれたように滑らかだった。岩と岩の間に水たまりがあり、列車が通過するたびに水面が揺れた。
こよいが窓に張りついた。岩の色が面白かった。黒い岩の表面に、白い線が走っている。潮の跡だった。波が何百年もかけて岩を削り、塩を残し、その繰り返しが白い縞模様を作っていた。
あさひが窓を開けた。
塩風が車内に吹き込んだ。あさひは風を顔に受け、口を動かした。空気を噛むように。
「味が違う。今までの空気には味が無かった。これは、塩っぱい」
久遠が目録の頁を指で押さえた。
「沿海遷移帯の特徴だ。内陸の漂白は名前を消すが、海に近い領域では漂白の進行が遅い。潮が名前を運ぶからだ。波が打ち寄せるたびに、海底に沈んだ名前の欠片が岸に打ち上げられる。漂白が消す速度と、潮が運ぶ速度が拮抗している」
こよいは耳を傾けた。
波の音が近くなっていた。押し寄せる音の中に、かすかに高い音が混じっている。金属とも石ともつかない、澄んだ音。水の中で何かが転がるような音だった。
「聞こえる。波の中に、何か混じってる」
「名前の欠片だ。海底に沈んだ名前が、波に洗われて岸に打ち上げられるとき、欠片同士がぶつかって音を出す。貝殻が鳴るのと同じ原理だ」
こよいは目を閉じた。
波の音を聴いた。寄せて、返して、寄せて。その呼吸のような律動の中に、小さな名前たちの声が混じっている。ぶつかり合い、転がり、また波に攫われ、また打ち上げられる。
巾着が穏やかに脈打った。布が温かい。海から聞こえる名前たちの気配に、中の名前たちが応えている。
「この先に、町はあるの」
久遠が目録をめくった。
「海図の町、という記録がある。海に面した集落で、名前の漁を行っていたらしい。波が運んでくる名前の欠片を拾い集めて、繋ぎ合わせる。内陸の井戸や泉とは違う方法で、名前を守ってきた土地だ」
あさひが窓から身を引いた。潮風で頬が赤くなっている。
「漁か。剣で斬るもんじゃねえな」
「斬るものでも、読むものでもない。拾うものだ」
久遠が目録を閉じた。表紙に潮の飛沫が細かい粒となって付き、革の表面が僅かに湿っていた。
「海の名前は、待つことで集まる。波が運んでくるのを待ち、岸で拾う。俺たちがこれまでやってきた方法とは、根本的に違う」
列車が岬を回った。
窓の外に、海が見えた。灰色の水平線が、霧の向こうに長く伸びていた。空と海の境目が滲んでいて、どこまでが水でどこからが空なのか判然としない。けれど波は確かにあった。白い波頭が立ち、岩に砕け、飛沫が霧に混じっていく。
波の音が車内を満たした。呼吸のような律動が、列車の揺れに重なった。車輪の刻むリズムと、波が岸を打つリズムが交差し、そのずれが奇妙な和音を作っていた。
こよいは巾着を胸の前に掲げた。海に向かって。波が運んでくる名前たちに向かって。
「聞こえるよ」
小さく言った。
波が返事のように、一つ高い音を立てた。岸のどこかで、名前の欠片が転がった音だった。潮風がこよいの髪を攫い、塩の粒が唇に触れた。
おたまが窓辺へ跳び乗り、波が高く砕けるたびに耳を動かした。小鈴と同じ高さの音が沖から返ると、巾着の二十七の脈も穏やかに揃う。欠片同士がぶつかる音を、猫が先に聞き分けていた。
久遠は沿海遷移帯を地名ではなく、潮が名前を岸へ返す範囲を示す区分として目録に注記した。「海図の町」も正式名ではない。名を失った漁師たちが自分たちの役目を呼ぶために残した通称だった。
地図にない呼び名でも、その働きと記憶は今も海辺に残っている。
地図から消された呼び名でも、海辺の岩や潮の匂いが、それを覚えている。土地そのものが記憶の器なのだと、こよいはこの旅で、何度も教えられていた。
土地が覚えているなら、いつか読み返せる。こよいは海辺の岩に手を触れ、そこに刻まれた見えない記憶を、指先で確かめた。




