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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第14章 風の残像

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425/469

第425話 露野の背

挿絵(By みてみん)


後ろを振り返ったのは、こよいだった。


 列車(れっしゃ)の最後尾、小さな丸窓から、走り去る景色が見えた。露野(つゆの)の平原が遠ざかっていく。実際の露野へ戻ったのではない。経蔵防壁の線路が、根に記録された露野の座標層を窓外へ映している。久遠(くおん)がそう告げても、白くなる草と古井戸の像には現地と同じ温度があった。


 けれど、色がおかしかった。


 露野(つゆの)を最初に訪れたとき、草は深い緑で、露(つゆ)は朝日を受けて金色に光っていた。地面は柔らかく、踏むたびに水の匂いがした。


 今、窓の向こうに見える露野(つゆの)は、白かった。


 「凍ってる」


 こよいが呟(つぶや)いた。


 久遠(くおん)が窓に寄った。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が丸窓を通過し、遠くの地表を走った。


 「霜(しも)じゃない。漂白(ひょうはく)だ。露(つゆ)が凍っているんじゃなく、露(つゆ)そのものが漂白(ひょうはく)されている。水分が白化している」


 緑だった草が、灰色に変わっていた。灰色の上に白い霜(しも)のようなものが載(の)っている。けれど久遠(くおん)の言うとおり、あれは霜(しも)ではなかった。霜(しも)には結晶がある。あの白には、構造が無い。のっぺりと、平坦(へいたん)に、草の表面を塗り潰すように広がっている。


 あさひが後ろから覗き込んだ。


 「速えな」


 「速い。窓に露野が映ってから、まだ半刻も経っていない。それでもう、あそこまで進んでいる」


 久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を細く絞り、遠ざかる白い地表を走査(そうさ)した。光が届く範囲(はんい)で、漂白(ひょうはく)の進行速度を計測(けいそく)しているのだろう。やがて目録(もくろく)を開き、数値を確認した。


 「露野(つゆの)の地表温度が下がっている。けれど、これは自然な冷却(れいきゃく)じゃない。漂白(ひょうはく)が進行するとき、対象から色と名前と温度が同時に抜ける。冷たく見えるのは結果であって、原因じゃない。名前が消えることで、その場所の熱が失われる」


 こよいは窓に額(ひたい)をつけた。


 硝子(ガラス)が冷たい。向こう側の冷気が、硝子(ガラス)を通じてこちらに伝わってくる。


 露野(つゆの)の古井戸(いど)が、まだあの場所にあるはずだった。名前たちが自力で掘った温かい泉(いずみ)も、根が繋(つな)いだ地下水脈(ちかすいみゃく)も。金色の水を湛(たた)えたあの小さな穴が、今もあそこにあるはずだった。


 「井戸(いど)は」


 こよいの声が震えた。


 「あの泉(いずみ)は。根は。あの子たちが作った場所は、大丈夫なの」


 久遠(くおん)は答えなかった。


 義眼(ぎがん)を細め、遠くの地表をもう一度走査(そうさ)した。蒼光(そうこう)が長く伸び、白い平原の中に何かを探している。


 「根は地下だ」


 しばらくして、久遠(くおん)が言った。


 「地表の漂白(ひょうはく)が地下まで届くには、時間がかかる。根脈(こんみゃく)は地下深くを走っている。今すぐには消えない」


 「今すぐは」


 「そうだ。今すぐは」


 その言葉の意味を、こよいは理解した。今すぐではないが、いずれは届く。漂白(ひょうはく)は止まらない。地表を覆(おお)い、やがて地下に浸透(しんとう)し、根を辿(たど)り、泉(いずみ)に至る。


 あさひが窓から離れた。壁に背をつけ、腕を組んだ。


 「振り返るな」


 短く言った。


 「振り返ったら足が止まる。足が止まったら、追いつかれる。前だけ見ろ」


 こよいは窓から顔を上げなかった。


 「見ないと忘れる」


 小さな声で言った。


 「あの場所がどんなだったか、覚えておかないと。温かかったこと。金色の水が湧いていたこと。名前たちが自分で場所を作ったこと。忘れたら、漂白(ひょうはく)と同じだ」


 あさひは何も言わなかった。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。


 「覚えておけばいい。ただし、足は止めるな」


 列車(れっしゃ)が加速した。


 露野(つゆの)がさらに遠くなる。白い平原が広がり、かつて緑だった丘が白い丘に変わっていく。空との境目が曖昧(あいまい)になっていた。地面も空も白く、どこまでが大地でどこからが空なのか分からなくなっている。


 巾着(きんちゃく)が震えた。


 中の名前たちが、露野(つゆの)の気配を感じ取っている。あの泉(いずみ)で生まれ直した仲間がいる。あの根を通って辿(たど)り着いた名前がいる。その故郷(こきょう)が、白に塗り潰されていく。


 こよいは巾着(きんちゃく)を両手で包んだ。掌(てのひら)に伝わる脈動(みゃくどう)が、いつもより速い。


 「大丈夫」


 声が震えていた。自分に言い聞かせているのだと分かっていた。それでも、声に出さなければ名前たちに届かない。

 名前たちに向かって、言った。


 「根は深い。あの子たちが張った根は、簡単には消えない。ぼくたちが前に進めば、漂白(ひょうはく)より先に名前を集められる。追いつかれる前に、もっとたくさん見つけるから」


 列車(れっしゃ)が丘を越えた。


 露野(つゆの)が見えなくなった。丸窓の向こうに、ただ白い霧(きり)が流れていた。


 おたまは丸窓から離れず、白くなる平原へ小鈴を鳴らした。窓の像は答えない。それでも根の向こう側で、露野の古井戸が一度だけ金色に瞬いた。地下の網はまだ生きている。


 こよいは窓から離れ、座席に座った。膝(ひざ)の上に巾着(きんちゃく)を置き、目を閉じた。瞼(まぶた)の裏に、金色の水面が揺れていた。あの温かさを、指先が覚えている。


 列車(れっしゃ)は、漂白が北へ押し寄せる源を断つため、あえて南の前線へ走り続けた。背中の方角で、露野(つゆの)の座標層が静かに白んでいった。


 振り返って覚えた景色を、今度は前へ進む理由に変えながら。

 小鈴の余韻も、南へ向かう車輪に重なった。

 露野(つゆの)の背に置いてきた名前たちが、遠ざかっていく。小鈴の余韻が、南へ向かう車輪の律動(りつどう)に重なり、やがて溶けて消えた。それでも、拾えた分は確かに胸にある。失った分まで覚えていよう、とこよいは車窓の闇へ、静かに別れを告げた。忘れないことが、せめてもの手向(たむ)けだった。

 列車は南へ、拾った名前と、拾えなかった名前の記憶を乗せて走り続けた。

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