第425話 露野の背
後ろを振り返ったのは、こよいだった。
列車の最後尾、小さな丸窓から、走り去る景色が見えた。露野の平原が遠ざかっていく。実際の露野へ戻ったのではない。経蔵防壁の線路が、根に記録された露野の座標層を窓外へ映している。久遠がそう告げても、白くなる草と古井戸の像には現地と同じ温度があった。
けれど、色がおかしかった。
露野を最初に訪れたとき、草は深い緑で、露は朝日を受けて金色に光っていた。地面は柔らかく、踏むたびに水の匂いがした。
今、窓の向こうに見える露野は、白かった。
「凍ってる」
こよいが呟いた。
久遠が窓に寄った。義眼の蒼光が丸窓を通過し、遠くの地表を走った。
「霜じゃない。漂白だ。露が凍っているんじゃなく、露そのものが漂白されている。水分が白化している」
緑だった草が、灰色に変わっていた。灰色の上に白い霜のようなものが載っている。けれど久遠の言うとおり、あれは霜ではなかった。霜には結晶がある。あの白には、構造が無い。のっぺりと、平坦に、草の表面を塗り潰すように広がっている。
あさひが後ろから覗き込んだ。
「速えな」
「速い。窓に露野が映ってから、まだ半刻も経っていない。それでもう、あそこまで進んでいる」
久遠は義眼の蒼光を細く絞り、遠ざかる白い地表を走査した。光が届く範囲で、漂白の進行速度を計測しているのだろう。やがて目録を開き、数値を確認した。
「露野の地表温度が下がっている。けれど、これは自然な冷却じゃない。漂白が進行するとき、対象から色と名前と温度が同時に抜ける。冷たく見えるのは結果であって、原因じゃない。名前が消えることで、その場所の熱が失われる」
こよいは窓に額をつけた。
硝子が冷たい。向こう側の冷気が、硝子を通じてこちらに伝わってくる。
露野の古井戸が、まだあの場所にあるはずだった。名前たちが自力で掘った温かい泉も、根が繋いだ地下水脈も。金色の水を湛えたあの小さな穴が、今もあそこにあるはずだった。
「井戸は」
こよいの声が震えた。
「あの泉は。根は。あの子たちが作った場所は、大丈夫なの」
久遠は答えなかった。
義眼を細め、遠くの地表をもう一度走査した。蒼光が長く伸び、白い平原の中に何かを探している。
「根は地下だ」
しばらくして、久遠が言った。
「地表の漂白が地下まで届くには、時間がかかる。根脈は地下深くを走っている。今すぐには消えない」
「今すぐは」
「そうだ。今すぐは」
その言葉の意味を、こよいは理解した。今すぐではないが、いずれは届く。漂白は止まらない。地表を覆い、やがて地下に浸透し、根を辿り、泉に至る。
あさひが窓から離れた。壁に背をつけ、腕を組んだ。
「振り返るな」
短く言った。
「振り返ったら足が止まる。足が止まったら、追いつかれる。前だけ見ろ」
こよいは窓から顔を上げなかった。
「見ないと忘れる」
小さな声で言った。
「あの場所がどんなだったか、覚えておかないと。温かかったこと。金色の水が湧いていたこと。名前たちが自分で場所を作ったこと。忘れたら、漂白と同じだ」
あさひは何も言わなかった。
久遠が目録を閉じた。
「覚えておけばいい。ただし、足は止めるな」
列車が加速した。
露野がさらに遠くなる。白い平原が広がり、かつて緑だった丘が白い丘に変わっていく。空との境目が曖昧になっていた。地面も空も白く、どこまでが大地でどこからが空なのか分からなくなっている。
巾着が震えた。
中の名前たちが、露野の気配を感じ取っている。あの泉で生まれ直した仲間がいる。あの根を通って辿り着いた名前がいる。その故郷が、白に塗り潰されていく。
こよいは巾着を両手で包んだ。掌に伝わる脈動が、いつもより速い。
「大丈夫」
声が震えていた。自分に言い聞かせているのだと分かっていた。それでも、声に出さなければ名前たちに届かない。
名前たちに向かって、言った。
「根は深い。あの子たちが張った根は、簡単には消えない。ぼくたちが前に進めば、漂白より先に名前を集められる。追いつかれる前に、もっとたくさん見つけるから」
列車が丘を越えた。
露野が見えなくなった。丸窓の向こうに、ただ白い霧が流れていた。
おたまは丸窓から離れず、白くなる平原へ小鈴を鳴らした。窓の像は答えない。それでも根の向こう側で、露野の古井戸が一度だけ金色に瞬いた。地下の網はまだ生きている。
こよいは窓から離れ、座席に座った。膝の上に巾着を置き、目を閉じた。瞼の裏に、金色の水面が揺れていた。あの温かさを、指先が覚えている。
列車は、漂白が北へ押し寄せる源を断つため、あえて南の前線へ走り続けた。背中の方角で、露野の座標層が静かに白んでいった。
振り返って覚えた景色を、今度は前へ進む理由に変えながら。
小鈴の余韻も、南へ向かう車輪に重なった。
露野の背に置いてきた名前たちが、遠ざかっていく。小鈴の余韻が、南へ向かう車輪の律動に重なり、やがて溶けて消えた。それでも、拾えた分は確かに胸にある。失った分まで覚えていよう、とこよいは車窓の闇へ、静かに別れを告げた。忘れないことが、せめてもの手向けだった。
列車は南へ、拾った名前と、拾えなかった名前の記憶を乗せて走り続けた。




