第424話 切符の端
列車の床に、紙片が落ちていた。
こよいが最初に見つけたのは偶然だった。座席の下から足を引いたとき、靴底に何かが貼りついた。剥がしてみると、小さな紙の切れ端だった。
切符だった。
正確には、切符の端だった。右半分が千切られていて、左端の一部だけが残っている。紙は古く、縁が茶色く変色していた。けれど、墨の匂いがまだ微かに残っている。
「久遠くん」
こよいが差し出すと、久遠は義眼を寄せた。
蒼光が紙片を舐めるように走った。
「印刷じゃない。手書きだ。筆で一枚ずつ書かれた切符だった。古い駅の発券方式だ」
紙片の断面から、古い墨の匂いが立ち上っている。乾いた筆先が紙に触れたときの、あの微かな摩擦の痕跡が繊維に残っていた。
文字が読めた。かろうじて、駅名の一部が残っている。ひらがな二文字のうち、最初の一文字だけ。「あ」と読めるが、次の文字は千切れた断面の向こうに消えていた。
「どこの駅だ」
「分からない。目録にも記録が無い。さっきの空白駅と同じで、消された駅の切符かもしれない」
久遠が紙片を光に透かした。
義眼の蒼光が紙の繊維の中を通過し、内部の構造を照らし出す。久遠の眉がわずかに動いた。
「墨じゃない」
久遠が言った。
「この文字は、名前を溶かした水で書かれている。墨の代わりに名前そのものを使って印字してある。名前墨だ。だから文字がまだ生きている」
こよいは紙片を手のひらに載せた。
温かかった。紙自体は古びて乾いているのに、文字の部分だけが微かに熱を持っていた。巾着の中の名前たちに似た温度だった。
「生きてるの」
「完全には死んでいない。けれど、名前としては不完全だ。二文字のうち一文字しかない。名前の半分だけが、この切れ端に残っている」
こよいは巾着を開いた。
紙片を中に入れようとした瞬間、巾着の中から不揃いな振動が返ってきた。中の名前たちが、一斉に脈打った。けれどそのリズムがおかしい。いつもの穏やかな鼓動ではなく、引きつるような短い拍が混じっている。
紙片を入れた。
巾着が震えた。
中で何かが弾けるように跳ね、すぐに収まった。けれど、そのあとの脈動が変わっていた。他の名前たちは等間隔で、静かに脈を打つ。新しく入った切れ端だけが、不規則に揺れている。速くなったり、止まりかけたり、急に強く跳ねたりする。
「不完全な名前は、リズムが安定しない」
久遠は目録を開きながら言った。
「完全な名前は自分の拍を持っている。だから巾着の中で他の名前と調和できる。けれど半分しかない名前は、自分のリズムを確立できない。他の名前の拍に引きずられて、揺れ続ける」
こよいは巾着の口を閉じ、手のひらで包んだ。不規則な振動が、掌を通じて伝わってくる。
「苦しいのかな」
「苦しいかどうかは分からない。ただ、不安定だ。もう半分の文字が見つからなければ、いずれ振動が止まる」
あさひが窓際から振り返った。
「探すのか。もう半分を」
「探す」
こよいが即答した。
「この子は、切符に書かれてた。誰かがこの子の名前で切符を作って、どこかに行こうとした。行き先があったんだ。行き先を持っていた名前が、途中で千切られた」
久遠が目録の白紙の頁を開き、切符の情報を書き写した。紙の素材、文字の書体、断面の角度。千切られた方向から、もう半分がどちらに飛んだか推測できるかもしれない。
「断面はきれいだ。刃物で切られたんじゃない。引き裂かれている」
久遠の声が低くなった。
「漂白で引き裂かれた可能性がある。駅が消されるとき、その駅で使われていた切符も一緒に消される。この切れ端は、消される寸前に千切れて落ちたのかもしれない」
列車が揺れた。
巾着の中の不規則な振動が、一瞬だけ列車の揺れと同期した。そのとき、他の名前たちの脈動がわずかに乱れた。不完全な名前のリズムに引っ張られたように。
けれどすぐに元に戻った。二十七の脈が、不安定な仲間を囲むようにして、自分たちのリズムを保ち続けている。半券の名はまだ完全な柱ではなく、台帳の数には加えない。
こよいは巾着を胸に抱いた。
「大丈夫。見つけるから」
不規則な脈動に向かって、小さく言った。
巾着の中で、半分の名前が跳ねた。答えるように。あるいは、もう半分を呼ぶように。
おたまが切符の断面へ鼻を寄せ、通過したばかりの空白駅がある方向──車内の後方を向いた。小鈴を一度鳴らすと、不規則な拍が同じ方向へ強く返る。もう半分は前方ではなく、今通過した空白駅側へ飛ばされた可能性が高い。久遠は断面の飛散角と猫の反応を目録へ重ねた。
列車の振動に揺られながら、こよいは切れ端の不規則な脈動に耳を澄ませた。その拍の奥に、失われた半分への必死な呼びかけが混じっている気がした。全部は分からない。それでも、聴こうとすることをやめなければ、いつか繋がる。列車は南へ、半分の名前を抱えて走り続けた。
切符の切れ端を、こよいは巾着の脈の間へそっと戻した。半分だけの名前でも、預かる場所はある。残りの半分と再び出会う日まで、忘れずに連れていくと決めた。
名前は、半分でも名前だった。




