第423話 空白駅の影
列車が止まった。
車輪の音が消えて、最初に気づいたのは匂いの無さだった。鉄の匂いも、油の匂いも、霧の湿り気すらない。空気が、何も含んでいなかった。
こよいは窓に顔を寄せた。
駅だった。ホームがあり、柱が立ち、屋根がある。構造としては間違いなく駅だった。けれど、すべてが白い。柱も、屋根も、ホームの床も。壁に掛かっていたはずの時刻表は、板だけが残り、文字が完全に消えていた。
駅名の看板があるべき場所には、白い長方形の板がぶら下がっている。何も書かれていない。
「名前が無い」
こよいが呟いた。
久遠が義眼を細め、蒼光をホームの端から端まで走らせた。
「漂白だ。駅ごと削られている。名前だけじゃない。この駅に関わるすべての記号が消されている」
三人はホームに降りた。
こよいの靴が床に触れた瞬間、足裏に冷たい硬さが走った。石でも金属でもない。名前を失った素材特有の、つるりとした無機質な感触だった。
音が無かった。足音すらくぐもって消える。空気が音を吸い込んでいるのではなく、音そのものがこの場所に存在することを拒まれているようだった。
あさひが鼻をひくつかせた。
「匂いも無え。完全に抜かれてる」
久遠がホームの中央で足を止めた。
床を見下ろしている。蒼光が足元を照らし、白い床面に焼きついた暗い染みを浮かび上がらせた。
影だった。
人の形をした影が、床に直接刻まれている。立っている姿勢のまま、足元から頭の先まで。影だけが残り、影を落としていた身体はどこにもない。
「十七」
久遠が数えた。
「十七体分の影が、このホームに焼きついている」
こよいはゆっくりと歩いた。影と影の間を縫うように。どの影も同じ方向を向いていた。線路の向こう、列車が来る方角を。待っていたのだ。列車を待って、ここに立っていた人たちの影が、漂白の中で焼き残された。
五つ目の影を過ぎたとき、こよいの足が止まった。
小さい影があった。
大人たちの影に挟まれて、膝の高さほどの影が一つ。手を伸ばしているような形で、隣の大きな影に向かって腕が伸びていた。
「子どもだ」
こよいの声が掠れた。
繋いでいた手が離れたのか。それとも最後まで繋いでいたのか。白い床の上の黒い染みからは、もう何も読み取れない。
巾着が胸の前で小さく脈打った。中の名前たちが、この場所の気配を感じ取っている。
久遠は目録を開いた。頁をめくる音だけが、この無音の駅に響いた。
「記録が無い。この駅の名前も、この駅を使っていた町の名前も、目録のどこにも載っていない。完全に消去されている」
あさひがホームの端に立ち、線路の先を睨んだ。
「消されたんじゃねえ。最初から無かったことにされてる」
久遠が頷いた。
「漂白の最終段階だ。名前を消し、記号を消し、記録を消す。そして最後に、存在したという事実そのものを消す。この駅は、その最後の段階まで進んでいる」
風が吹かなかった。この駅には風すら入ってこない。空気は淀みもせず、流れもせず、ただ透明なまま静止していた。
こよいは子どもの影の前にしゃがんだ。
伸ばされた小さな手の形を、指でなぞろうとした。触れた瞬間、影の輪郭がわずかに滲んだ。熱があった。白い床は冷たいのに、影だけが微かに温かい。
「まだ、残ってる」
こよいが言った。
「この子の影、まだ温かい。全部は消えてない」
久遠が膝をつき、義眼の光を影に当てた。蒼光が黒い染みの中を走り、一瞬だけ、かすかな金色の筋が浮かんだ。
「名前の痕跡だ。影の中に、名前の残滓が閉じ込められている。漂白が身体を消しても、影に焼きついた名前の熱までは消しきれなかった」
巾着の脈動が強くなった。中の名前たちが、影の中の残滓に呼びかけている。
けれど、こよいは巾着の口を開けなかった。
「今は、無理だよ」
久遠に向かって、静かに言った。
「この子の名前は、影の中にしかない。無理に引き出したら、影ごと消えてしまう」
久遠は黙って頷いた。目録を閉じ、立ち上がった。
あさひが振り返った。
「長居するな。この駅は、いる者の影も引き始める」
こよいは立ち上がり、自分の足元を見た。
自分の影が、わずかに薄くなっていた。ホームの白に、少しだけ溶け始めている。
三人は列車に戻った。
扉が閉まり、車輪が回り始めた瞬間、音が戻った。鉄の軋み、風の唸り、自分たちの呼吸。当たり前の音が、こんなに重いものだったと初めて知った。
こよいは窓から駅を見た。白いホームが遠ざかっていく。十七の影が、まだそこに立っていた。列車を待つ姿勢のまま、永遠に。
子どもの影だけが、手を伸ばし続けていた。
おたまは窓辺で、その小さな手と同じ高さに前脚を上げた。触れられない距離のまま小鈴が鳴る。救出ではない。それでも、待っている影を見た者がいたという応答だけは、白い駅に残った。
救い出せなくても、見た者がいる。待っている影を、確かに誰かが見た。それだけで、氷の中の名前は、独りではなくなる。おたまの小鈴が、届かない距離を越えて、静かに鳴った。
見た者がいるかぎり、忘れられた名前も、完全には消えない。こよいは窓硝子に手を当て、氷の中の影へ、届かない約束を送った。必ず、戻ってくる、と。




