第418話 乾いた沈黙
返らぬ道の先で、冷たい灯は霧列車の前照灯へ変わった。階段下で待っていた同じ列車が、みずから線路を敷き直しながら、消えた道の前方へ回り込んだのだ。三人とおたまが乗り、扉が閉じる。
音が消えた。
車輪の音が最初に消えた。線路の継ぎ目を越える規則的な振動は足裏に伝わっている。列車は走っている。けれど音がない。
あさひが口を開いた。唇が動くのが見えた。声は聞こえなかった。
こよいは自分の手を叩いた。両手を合わせる感触はある。皮膚が皮膚に当たる衝撃が掌に残る。音だけがない。
久遠は目録を閉じた。
革の表紙が合わさる瞬間、衝撃が指先に伝わった。聞こえるはずの音は、空気の中で消えていた。
「——」
久遠が何か言った。
唇の動きを追う。読めない。久遠は早口で、唇の動きが小さい。
あさひが床を踏んだ。
右足で、強く。
振動が床板を伝い、こよいの足にまで届いた。あさひの意図は明らかだった。聞こえないなら、感じろ。
久遠が理解した。
目録を開き、空白の頁に鉛筆を走らせた。文字を書いて、こよいとあさひに見せる。
『音が遮断されている。空気の振動そのものが抑制されている。音波が発生しない。だが固体を伝わる振動は残っている』
こよいは頷いた。
久遠が次の行を書く。
『漂白が音の領域に及んだ。色や形だけでなく、音という情報も削り始めている』
あさひが久遠の肩を叩いた。
久遠が顔を上げる。あさひは口を大きく動かして、ゆっくりと一語ずつ発した。
読めた。
「いつまで」
久遠は鉛筆で頁に書いた。
『分からない。区間性のものなら、次の駅で解除されるかもしれない』
こよいは巾着に手を当てた。
脈動がある。名前たちの鼓動を、掌で感じた。音は消えているのに、脈動は消えていない。
音は空気を媒介にする。
名前の脈動は、空気ではなく布と皮膚を媒介にしている。だから消えなかった。
こよいは久遠の鉛筆を指差し、目録の頁を指差した。
久遠が鉛筆を渡す。こよいは書いた。
『名前はまだ脈打ってる。触れば分かる。音は消えたけど、触覚は残ってる』
久遠が頷いた。
義眼の蒼光が強まった。蒼い光が目録の頁の上に文字を投影する。光の文字は空気を介さない。視覚は生きている。
久遠は義眼から光の文字列を頁に映して、情報を伝え始めた。
蒼い光の文字が頁の上を流れる。
『義眼の投影機能は健在。視覚と触覚を使って連携する。聴覚に頼るな』
あさひは布包みの剣の石突を床に突き立てた。
振動が走った。一回。短く。了解の合図。
こよいは座席から立ち上がった。
窓の外を見る。景色は変わらず流れている。霧の中に、うっすらと木々の影が見える。音のない世界で、景色だけが黙って動いていた。
足を踏み出した。
靴底が床に触れる。感触はある。けれど足音がない。自分の歩く音を聞いたことがないという感覚は、想像よりもずっと不安だった。
体が自分のものではないような気がした。
音がないと、動作の確認が取れない。歩いているのか、立っているのか。感触だけでは、動きの実感が薄い。
あさひが隣に来た。
肩が触れた。あさひは何も言わず——言えず——こよいの腕をつかんだ。指先に力がある。ここにいる、という意味の力だった。
久遠が目録に何か書き、二人に見せた。
『窓の外に駅舎が見える。三つ先の信号柱を過ぎたあたりだ。あそこまで持ちこたえろ』
列車が減速を始めた。
振動のパターンが変わった。車輪の回転が遅くなっている。足裏で分かる。ブレーキの軋みは聞こえないが、床に伝わる圧力が変わった。
こよいは巾着を両手で包んだ。
名前たちの脈動が速くなっている。駅が近い。駅には名前がある。名前のある場所に近づくと、名前たちが応える。
列車が止まった。
扉が開く音は聞こえなかった。けれど空気が動いた。外の空気が入ってきた。湿った空気。潮の匂い。
そして——
遠くで、鳴った。
鐘の音だった。
低く、長い残響を引く鐘の音が、駅舎の向こうから聞こえた。
音が戻った。
こよいの耳が、世界を取り戻した。列車の金属が冷える音。外の風が窓枠を叩く音。あさひの呼吸。久遠が鉛筆を置く音。
最初にはっきり聞き分けられたのは、おたまの小鈴だった。無音の間も振動として掌へ届いていた拍が、今度は空気を通って同じ間隔で返る。こよいは猫を抱き上げ、失われなかったリズムを耳でも確かめた。
「……聞こえる」
こよいの声が、自分の耳に届いた。
声が震えていた。
あさひがこよいの腕を離した。
そして、一言だけ。
「長かったな」
その声を聞いて、こよいは初めて、音がどれほど大切なものだったかを知った。
久遠は目録の頁を見ていた。
沈黙の区間で書いた文字が、びっしりと頁を埋めている。声の代わりに積み上げた言葉の列。
義眼の蒼光が静かに明滅した。
久遠はその頁を破らず、そのまま閉じた。
沈黙の記録として、残しておくように。




