第419話 凍る車内
行灯が消えた。
一つずつではなかった。天井に並ぶ六つの行灯が、端から順に、一秒おきに消えていった。最後の一つが消えるまでの六秒間、こよいは息を止めていた。
闇の中で、自分の心臓の音だけが異様に大きく響く。
行灯が再び灯った。蒼白い光が戻る。けれど、灯る前と後で、車内の色が変わっていた。座席の布地が、少しだけ白くなっている。壁の塗装も、天井の木目も。六秒の闇のあいだに、車内の色が一層薄くなった。
漂白が進んでいる。列車の中にまで。
久遠は目録の頁に義眼を凝らしていた。蒼光が頁を走るたびに、文字が端から蒼白く溶けていく。
「読む速度と消える速度が拮抗している」
押し殺した声だった。
「目録の文字が漂白されている。ここに書かれた記録を、観測者が本体側から消去しようとしている。俺が読み終わる前に消されたら、その記録は永久に失われる」
久遠の指先が頁を押さえる力が白くなっていた。爪の先が紙に食い込んでいる。読み取りと消去の競争だった。
窓の外が白い。
こよいは窓硝子に指を当てた。冷たかった。硝子越しに、温度のない白が広がっている。指先から体温が吸い取られるような錯覚がして、慌てて手を引いた。
以前は霧に混じって景色の断片が見えていた。丘の輪郭、木々の影、遠くの建物。今は何もない。白い空白が、窓の外を満たしている。虫食いのような穴ではなく、隙間のない白。世界の記憶そのものに、巨大な空白が広がっている。
こよいは巾着を胸に引き寄せた。
「あの子たちの名前も、白くなるの」
声が震えた。
巾着の中の名前たちが、漂白の圧力を感じ取っている。脈動がいつもより速い。恐れているのではなく、抵抗している。けれどその抵抗の力が、いつまで持つか分からなかった。
久遠は頁から目を離さなかった。
「消えた文字は戻らない。だが、読んだ文字は俺の中に残る。消す前に読む。読んだ記録は、目録が白くなっても俺が覚えている」
義眼の周囲の皮膚が赤くなっていた。出力を上げすぎた代償だった。蒼光が不安定に明滅し、その光の中で頁の文字が一行ずつ白く変わっていく。
久遠は速度を上げた。目が文字を追い、義眼が暗号を解読し、記憶に焼き付ける。消えていく文字と読み取る目の、壮絶な追いかけ合い。蒼光が走るたびに、久遠の額に汗が滲んだ。その汗さえも蒼く光っていた。
行灯がまた消えた。今度は三秒。
灯ったとき、座席の布地がさらに白くなっていた。
こよいは座席の表面を指先で撫でた。布の手触りは変わらない。質感は残っている。色だけが抜けた。座席の模様がかろうじて凹凸として残っているだけで、染料が完全に失われている。風に消されたあの線路の赤と同じだった。物は残っているのに、情報だけが削られている。
あさひは窓を背にして座っていた。白い窓の外を見ないようにしている。剣を膝に立てかけ、柄に置いた手が力を帯びていた。
「夜はまだ明けない」
低い声だった。
こよいと久遠が顔を上げた。
あさひの声には、ここに至るまでの全ての道のりの重みがあった。影の回廊を抜け、柱の森を越え、砂と風と沈黙の中を歩き続けてきた。そしてまだ、着いていない。
「遠いが、近くもなっている。ここまで来た」
あさひの視線がこよいに向いた。
「怖いか」
「怖い」
こよいは正直に答えた。
「だったら、その怖さを巾着に仕舞え。あの子たちが受け止めてくれる。名前は怖さも抱える。お前だけで持たなくていい」
こよいは巾着を握り直した。名前たちの脈動が、こよいの心臓と重なった。速かった脈が、少しだけ落ち着いた。
行灯がまた消えた。二秒。
灯った。間隔が短くなっている。消灯の時間が縮まり、復帰までの空白が狭くなっている。漂白が加速している。
久遠は頁をめくった。次の頁の文字はまだ残っている。消去は先頭から順に進んでいた。久遠が今いる頁の手前まで来ている。追いつかれるまでに、あとどれだけ読めるか。
列車は走り続けていた。車輪の音だけが変わらない。車内の色は薄くなり続けているが、振動は消えない。列車はまだ走っている。
車輪の振動が座席の下から伝わり、こよいの背骨を揺らしている。その規則正しい拍が、巾着の中の名前たちの脈動と重なった。
それだけが、長い今夜の支えだった。
座席の下で、おたまの三毛まで暗闇のたびに白く抜けた。こよいが手を伸ばすと、毛の色は戻らなくても体温と小鈴の形は残っている。見えない数秒ごとに一度、鈴を指で鳴らした。
久遠はその間隔を、消灯の短縮速度と並べて目録へ刻んだ。恐怖を隠すのではなく測れる拍へ変えれば、名前たちも同じリズムで抱えられる。二十七の脈は、こよいの震えまで囲んで一つの波を保った。
恐怖は、測れば拍になる。拍になれば、名前たちと同じリズムで抱えられる。久遠の目録は、震えを数字に変えることで、震える者を支えていた。
測れる恐怖は、もう恐怖ではない。久遠の冷徹な数字が、震える者たちの、いちばん優しい支えになっていた。




