第417話 返らぬ道
返らぬ道は、音で分かる。
足音が、背中側へ落ちていかない。振り返っても、残響が戻ってこない。
こよいは、立ち止まった。石畳の上に置いた足裏が、ほんの少しだけ軽い。地面と靴底の間から、何かが抜け落ちているような感覚。重力が薄い場所に立っているのではなく、地面そのものが背後から順に剥がれている。空気の湿度まで変わっていた。前方にはまだ霧の水気があるのに、背後からは乾いた虚無の匂いが忍び寄っている。
「……変だ」
あさひが前を見たまま言った。大剣の柄に手を添え、歩幅を縮めている。獣が危険を感じ取ったときの歩き方だった。
久遠は目録を閉じ、指先で空を撫でた。義眼の蒼光が、うっすらと道の輪郭を照らす。光が背後に向かって伸びた瞬間、途中で消えた。光が届く先が、なくなっている。
「戻れない、ってこと?」
こよいが訊いた。声が小さくなっていた。
久遠は答える代わりに、一本の小石を拾った。掌の上で一度だけ転がし、後ろへ放る。小石は、落ちる音を立てなかった。消えた。霧に吸われたのではない。小石が着地するはずの場所が、もう存在していなかった。三人は息を呑み、小石が消えた虚空を見つめた。
おたまが背後へ戻ろうとし、前脚を置く直前で身を引いた。猫には道の消える境が見えているらしい。小鈴を鳴らさず、三人の足跡のいちばん後ろへ座る。そこから先を退路として数えないことが、唯一の警告だった。
「……道が、剥がれてる」
久遠が息と一緒に言った。
「俺たちが踏んだ場所から順に、記録が剥離していく。戻ろうとしても、もう『そこ』が無い」
こよいは喉の奥が冷えるのを感取した。巾着の中の名前たちが一斉に縮こまるように脈動を弱めた。唾を飲み込もうとしたが、喉が乾いて動かない。
「そんな……」
あさひが振り返る。そこには、霧だけがあった。線路も、道標も、来たはずの道も。白い霧が、切り取られた紙の端のように、まっすぐな縁を見せて佇んでいた。
「……追い返しだ。観測者のやり口」
あさひの声に怒りはなかった。ただ、事実を噛み砕くような冷静さがあった。
あさひは短く言い、剣の柄を叩いた。鋼の乾いた音が、前方にだけ響いた。
「道を消す。選択肢を減らす。最後は、意志ごと固定する」
久遠が唇を歪めた。
「……だから、逆だ。選択肢が消える前に、選び切る」
こよいは巾着を握り、神々の温もりを確かめた。温もりは、まだ消えていない。名前たちの脈動が、掌の中で小さく鼓動を刻んでいる。
「……ぼくたち、どこへ向かってるの」
久遠は前を指した。霧の奥に、微かな灯。風鈴でも行灯でもない。紙が擦れるような、薄い光。近づいているのか遠ざかっているのか、距離すらも判別がつかなかった。
「返れないなら、進むだけだ」
あさひが言った。
こよいは、小さく頷いた。戻れない道は怖い。でも戻れる道だけを選び続けたら、いつまでもここで止まる。
こよいは足元を見た。石畳の継ぎ目に、白い粉が溜まっている。砂でも灰でもない。指先で触れると、紙の繊維みたいにほどけた。粉は指先の温度で微かに収縮し、すぐに崩れた。
「……道の記録が、剥がれている」
久遠が肯いた。
「足跡も消える。俺たちがここに居た証も、戻れない証も」
「証まで……」
こよいは喉の奥で言葉を噛んだ。それでも、巾着の温もりだけは残っているから、歩ける。名前たちの体温が、こよいの掌に小さな証を刻み続けている。
「……行こう」
こよいが短く言った。
霧の中で、三人の足音が重なり、前へ伸びた。背中側には、もう何も落ちない。灯は近づくほど、冷たさを増した。明るいのに、温度がない。観測者の灯かもしれない。
それでも、行く。
あさひが、こよいの歩幅に合わせるように少しだけ速度を落とした。
「怖いなら、声を出せ」
「……声は、拾われるんじゃ」
「拾わせ方を選べ。黙って震えるより、ずっといい」
こよいは一度だけ息を吸い、短く言った。
「……ぼくは、進む」
言葉は霧に吸われた。でも、胸の灯は消えなかった。
背中の側の道は、消えたのではなかった。ただ、もう無いのだ。消されたのでもなく、崩れたのでもなく、最初からそこには何も敷かれていなかったかのように、霧だけが静かに佇んでいた。
線路の軌条が、どこかで霧の中へ曲がっている。その先にあるはずの駅も、枕木も、錆びた釘の一本さえも見えない。
もう前にしかない。
それでも、前には三人と一匹ぶんの場所が残っていた。
怖いと口にしたこよいの声は、背後へ落ちず前へ届いた。あさひが短く返事をし、久遠も足音を重ねる。失われた退路の代わりに、互いの応答が今いる場所を固定した。
こよいは巾着の温もりを胸に押し当て、霧の中の薄い光へ向かって、次の一歩を踏み出した。
石畳が足の下で微かに軋み、その音だけが、三人がまだここに在ることの証として、前方の闇へと落ちていった。
在ることの証は、こんなにも小さな軋みひとつだった。それでも、その音が響くかぎり、三人はまだ消えていない。闇は深い。だが、足音は前へ落ちていく。
足音が響くかぎり、道は続く。こよいは前を向き、闇の奥へもう一歩を落とした。消えないための、確かな一歩だった。
消えないための一歩を、こよいは今日も、確かに踏み出していた。




