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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第14章 風の残像

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第416話 遠い合図

挿絵(By みてみん)


二つの町を過ぎた先で、根の脈が列車の床から左へ逸(そ)れた。霧列車(きりれっしゃ)は屋根も名標もない足場に止まり、扉を開く。久遠(くおん)が余白の隠し書きと照合すると、次の楔へ続く座標は線路ではなく、霧の上方にあった。


 三人とおたまは下車した。扉が閉じても列車は消えず、階段の下で待つように霧へ輪郭を薄めた。


 石の階段があった。


 どこから始まっているか分からない。霧(きり)の中から段が一つずつ現れ、上に向かって伸びている。段の幅は狭く、二人並んでは歩けない。石の表面は苔(こけ)に覆(おお)われ、湿っていた。一段ごとに、踏んだ場所から苔(こけ)が剥(は)がれ、その下の灰色の石肌(いしはだ)が露出(ろしゅつ)する。


 階段の先に、灯(ひ)が見えた。


 遠い。何歩分の距離かは見当がつかない。灯(ひ)は微かに揺れている。蝋燭(ろうそく)でも行灯(あんどん)でもない。もっと薄い。紙の上で墨(すみ)が乾く直前に一度だけ光を返す、あの弱さだった。見つめ続けていると、灯(ひ)と霧(きり)の境目が曖昧(あいまい)になり、本当にそこにあるのか疑わしくなる。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握った。名前たちの脈動(みゃくどう)が、わずかに変わった。いつもの温もりに、方向が加わっている。灯(ひ)のある方角を、名前たちも感じている。脈動(みゃくどう)の波が、灯(ひ)に向かって少しだけ偏(かたよ)っていた。


 「合図(あいず)だ」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。蒼光(そうこう)が霧(きり)の中に細い線を引くが、灯(ひ)には届かない。


 「灯(ひ)が俺たちを呼んでいるのか、それとも見張っているのかは分からない。だが、反応している。目録(もくろく)の金線も、あの方角に傾いている」


 あさひが階段の一段目に足を置いた。石が軋(きし)んだ。苔(こけ)の下から水滴が押し出され、段の縁(ふち)を伝って流れ落ちた。


 「罠(わな)か」


 「断定できない。だが——」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)の頁(ページ)を確認した。余白(よはく)の隠し文字に、この座標(ざひょう)に近い記述がある。


 「編者が記録(きろく)を残した場所に近い。観測者(かんそくしゃ)が消した場所を、わざわざ余白(よはく)の下に書いた。消された場所に灯(ひ)がある。矛盾しているが——」


 「消し残しかもしれないってことだ」


 あさひが先に上り始めた。靴が苔(こけ)を踏み、湿った音(おと)が立つ。


 こよいは二段目に足を置いた。石が冷たい。けれど、段の奥から微かな振動が伝わってくる。根の脈動(みゃくどう)だ。ここにも蔓(つる)が通っている。石の継ぎ目に、金色の筋がかすかに覗(のぞ)いていた。


 階段を上るにつれて、空気が変わった。密度が増すのではなく、薄くなる。呼吸(こきゅう)が浅くなった。高い場所の空気ではなく、記録(きろく)の密度が低い場所の空気だった。周囲の情報が少ない。見えるものが少ない。色が減り、音が遠くなり、匂いが薄れていく。霧(きり)の中を歩いているはずなのに、霧(きり)の匂いさえ感じなくなった。


 代わりに、合図(あいず)だけが残った。


 灯(ひ)の揺れ。名前たちの脈動(みゃくどう)の方角。足裏に伝わる根の振動。声ではなく、気配だけで方角を伝えてくるもの。


 こよいは言葉にできなかった。合図(あいず)が何であるのか。導きなのか、罠(わな)なのか。説明しようとすると、感覚が逃げていく。掌(てのひら)の中の巾着(きんちゃく)が、答えを知っているように脈打っているのに、こよいの口からは何も出てこなかった。


 「言葉にできないなら、しなくていい」


 久遠(くおん)が後ろから言った。声が低く、近い。


 「声にすると、奪われやすくなる。感じたまま形にせず持っていろ。名前たちも、声にならない脈で道を伝えている」


 あさひは振り返らなかった。階段を上り続けている。背中だけがこよいに向いている。


 その背中が言っていた。考えるな、足を出せ。


 階段の十段目で、灯(ひ)が消えた。


 こよいは足を止めた。灯(ひ)があった場所が暗くなり、方角を失った。巾着(きんちゃく)の脈動(みゃくどう)も、一瞬だけ途切れた。心臓が跳ねた。暗い階段の上で、足元の石だけが確かだった。


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を上に向けた。霧(きり)の中に何かがある。灯(ひ)ではない。もっと小さい。点ではなく、線。蒼光(そうこう)に照らされて、一瞬だけ金色に光った。


 「根だ。蔓(つる)が階段の壁の中を這(は)い上がっている。灯(ひ)が消えても、根は残っている」


 あさひが階段の壁に掌(てのひら)を当てた。


 「温かい。石の中を何か通ってる」


 こよいも壁に手を当てた。根の脈動(みゃくどう)が、掌(てのひら)に直接伝わってくる。灯(ひ)よりも弱い。だが途切れない。根は灯(ひ)のように消えたり点(つ)いたりしない。ただ流れ続けている。石の冷たさの向こうに、生きたものの温度がある。


 合図(あいず)は灯(ひ)だと思っていた。


 違った。灯(ひ)は表面にある信号に過ぎない。本当の合図(あいず)は、石の中を流れる根の脈動(みゃくどう)だった。消されても根は残る。灯(ひ)が消えた後にも、壁を伝って方角を教え続ける。


 こよいは壁から手を離し、階段の次の一段に足を置いた。


 灯(ひ)は見えない。けれど根は流れている。足裏と掌(てのひら)で方角を取りながら、霧(きり)の中を上に向かう。


 あさひが先を歩く。久遠(くおん)が後ろで記録(きろく)を取る。


 合図(あいず)は遠い。到着する保証はない。導きなのか罠(わな)なのか、まだ分からない。


 それでも一段目に足を置いた。おたまは灯を見ず、壁の苔(こけ)へ鼻を寄せて先に上る。小鈴が鳴るたび、石の内側の根が一段先で応えた。消える灯ではなく、消えない振動を合図に変える。


 石の冷たさが靴底を通して足裏に届き、その奥で根の温もりが微かに応えた。それが答えだった。

 石の冷たさの奥に、根の温もりがある。表と裏、拒絶と受容。この大地は、そのどちらも同時に抱えていた。こよいは足裏で、その二つの温度を確かめながら歩いた。

 拒みながら受け入れる大地の上を、三人はなお進んだ。矛盾を抱えたまま在ることこそ、生きているということなのかもしれなかった。

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