第416話 遠い合図
二つの町を過ぎた先で、根の脈が列車の床から左へ逸れた。霧列車は屋根も名標もない足場に止まり、扉を開く。久遠が余白の隠し書きと照合すると、次の楔へ続く座標は線路ではなく、霧の上方にあった。
三人とおたまは下車した。扉が閉じても列車は消えず、階段の下で待つように霧へ輪郭を薄めた。
石の階段があった。
どこから始まっているか分からない。霧の中から段が一つずつ現れ、上に向かって伸びている。段の幅は狭く、二人並んでは歩けない。石の表面は苔に覆われ、湿っていた。一段ごとに、踏んだ場所から苔が剥がれ、その下の灰色の石肌が露出する。
階段の先に、灯が見えた。
遠い。何歩分の距離かは見当がつかない。灯は微かに揺れている。蝋燭でも行灯でもない。もっと薄い。紙の上で墨が乾く直前に一度だけ光を返す、あの弱さだった。見つめ続けていると、灯と霧の境目が曖昧になり、本当にそこにあるのか疑わしくなる。
こよいは巾着を握った。名前たちの脈動が、わずかに変わった。いつもの温もりに、方向が加わっている。灯のある方角を、名前たちも感じている。脈動の波が、灯に向かって少しだけ偏っていた。
「合図だ」
久遠が義眼を細めた。蒼光が霧の中に細い線を引くが、灯には届かない。
「灯が俺たちを呼んでいるのか、それとも見張っているのかは分からない。だが、反応している。目録の金線も、あの方角に傾いている」
あさひが階段の一段目に足を置いた。石が軋んだ。苔の下から水滴が押し出され、段の縁を伝って流れ落ちた。
「罠か」
「断定できない。だが——」
久遠は目録の頁を確認した。余白の隠し文字に、この座標に近い記述がある。
「編者が記録を残した場所に近い。観測者が消した場所を、わざわざ余白の下に書いた。消された場所に灯がある。矛盾しているが——」
「消し残しかもしれないってことだ」
あさひが先に上り始めた。靴が苔を踏み、湿った音が立つ。
こよいは二段目に足を置いた。石が冷たい。けれど、段の奥から微かな振動が伝わってくる。根の脈動だ。ここにも蔓が通っている。石の継ぎ目に、金色の筋がかすかに覗いていた。
階段を上るにつれて、空気が変わった。密度が増すのではなく、薄くなる。呼吸が浅くなった。高い場所の空気ではなく、記録の密度が低い場所の空気だった。周囲の情報が少ない。見えるものが少ない。色が減り、音が遠くなり、匂いが薄れていく。霧の中を歩いているはずなのに、霧の匂いさえ感じなくなった。
代わりに、合図だけが残った。
灯の揺れ。名前たちの脈動の方角。足裏に伝わる根の振動。声ではなく、気配だけで方角を伝えてくるもの。
こよいは言葉にできなかった。合図が何であるのか。導きなのか、罠なのか。説明しようとすると、感覚が逃げていく。掌の中の巾着が、答えを知っているように脈打っているのに、こよいの口からは何も出てこなかった。
「言葉にできないなら、しなくていい」
久遠が後ろから言った。声が低く、近い。
「声にすると、奪われやすくなる。感じたまま形にせず持っていろ。名前たちも、声にならない脈で道を伝えている」
あさひは振り返らなかった。階段を上り続けている。背中だけがこよいに向いている。
その背中が言っていた。考えるな、足を出せ。
階段の十段目で、灯が消えた。
こよいは足を止めた。灯があった場所が暗くなり、方角を失った。巾着の脈動も、一瞬だけ途切れた。心臓が跳ねた。暗い階段の上で、足元の石だけが確かだった。
久遠が義眼の蒼光を上に向けた。霧の中に何かがある。灯ではない。もっと小さい。点ではなく、線。蒼光に照らされて、一瞬だけ金色に光った。
「根だ。蔓が階段の壁の中を這い上がっている。灯が消えても、根は残っている」
あさひが階段の壁に掌を当てた。
「温かい。石の中を何か通ってる」
こよいも壁に手を当てた。根の脈動が、掌に直接伝わってくる。灯よりも弱い。だが途切れない。根は灯のように消えたり点いたりしない。ただ流れ続けている。石の冷たさの向こうに、生きたものの温度がある。
合図は灯だと思っていた。
違った。灯は表面にある信号に過ぎない。本当の合図は、石の中を流れる根の脈動だった。消されても根は残る。灯が消えた後にも、壁を伝って方角を教え続ける。
こよいは壁から手を離し、階段の次の一段に足を置いた。
灯は見えない。けれど根は流れている。足裏と掌で方角を取りながら、霧の中を上に向かう。
あさひが先を歩く。久遠が後ろで記録を取る。
合図は遠い。到着する保証はない。導きなのか罠なのか、まだ分からない。
それでも一段目に足を置いた。おたまは灯を見ず、壁の苔へ鼻を寄せて先に上る。小鈴が鳴るたび、石の内側の根が一段先で応えた。消える灯ではなく、消えない振動を合図に変える。
石の冷たさが靴底を通して足裏に届き、その奥で根の温もりが微かに応えた。それが答えだった。
石の冷たさの奥に、根の温もりがある。表と裏、拒絶と受容。この大地は、そのどちらも同時に抱えていた。こよいは足裏で、その二つの温度を確かめながら歩いた。
拒みながら受け入れる大地の上を、三人はなお進んだ。矛盾を抱えたまま在ることこそ、生きているということなのかもしれなかった。




