第415話 町の対立
窓の右側と左側で、違う町が見えた。
同じ地形だった。同じ丘の斜面に、同じ間隔で建物が並んでいる。道の曲がり方も、川の流れ方も、丘の上の時計塔の位置も同じだった。
けれど色が違った。
右側の町には、灯がともっている。
窓の奥に橙色の光が揺れ、煙突から細い煙が立ち昇っている。路地から子どもの声が聞こえた気がした。聞こえたのか、記憶が補ったのか、こよいには判別がつかない。ただ、あの町には人がいる。そういう気配があった。
左側の町には、何もなかった。
建物の形は同じだ。壁があり、屋根があり、窓がある。けれど色がない。白い壁、白い屋根、白い窓枠。煙突からは何も出ていない。路地に音はなく、窓の奥に光もない。
漂白された町だった。
「同じ町だ」
久遠が義眼の蒼光を左右に動かしながら言った。
「二つの町じゃない。一つの町が、二つの状態で同時に存在している。名前が残っている状態と、漂白された状態。その両方が重なっている」
「重なってるんじゃねえ。ずれてるんだ」
あさひが窓に手をつきながら言った。
あさひの言う通りだった。二つの町は完全には重なっていない。右側の町と左側の町が、建物半分ほどの幅でずれている。灯のともった家の壁に、白い家の壁が半分だけ重なっている。二つの輪郭が噛み合わないまま、同じ場所を占めようとしていた。
「対立しているのか」
こよいが訊いた。
「対立じゃない。収束だ」
久遠は目録を開いた。
頁の余白に走った亀裂の隠し文字を確認している。
「漂白された状態と、名前が残った状態。本来ならどちらか一方しか存在できない。だが今は、漂白の速度と名前の抵抗が拮抗している。どちらにも確定できないまま、二つの状態が同時に顕現している」
「いつまで続く」
「続かない。いずれ一つに収束する。問題は、収束したとき——どちらが残るかだ」
列車が速度を落とした。
線路が町の縁を通っている。窓から見える距離が近くなり、二つの町の細部が見えるようになった。
右側の町の路地に、洗濯物が干されていた。
白い布が風に揺れている。日常の風景だった。布の端が乾き始めていて、干してからしばらく経っていることが分かる。
左側の町の同じ路地には、同じ形の洗濯紐が張られていた。
けれど紐には何もぶら下がっていない。布があった場所に、空白がある。
二つの路地が、少しずつ近づいていた。
こよいは窓硝子に額を寄せた。
右の路地と左の路地の距離が、建物の幅から壁一枚分にまで縮まっている。
「……重なりかけてる」
「収束が始まっている」
久遠が目録を閉じた。
「このまま完全に重なると、二つの状態が相殺される。名前のある町も、漂白された町も、どちらも消える。残るのは——何もない空白だ。町そのものが存在しなかったことになる」
「止められねえのか」
あさひの声は低かった。
剣の柄に手をかけているが、斬れる相手がいないことは本人にも分かっている。
「止められない。俺たちは列車の中にいる。降りたところで、収束は物理的な現象じゃない。二つの町のあいだに割って入ることはできない」
列車がさらに速度を落とした。
ほとんど歩く速さだった。
右側の町で、扉が開いた。
誰かが出てきた——ように見えた。人の形をした影が、路地の入り口に立っている。顔は見えない。距離があるのか、それとも顔がないのか。
左側の町の同じ場所には、扉の形だけがあった。
開いてもいない。閉じてもいない。扉という概念の残骸だった。
二つの扉の距離が、腕一本分にまで縮まった。
こよいの巾着が脈打った。
強い脈動ではない。中の名前たちが息を詰めているような、浅い震え。
「あの町の名前、まだ生きてるの」
「生きている。だが弱い。抵抗しているのは町の名前だけで、住人の名前はほとんど消えている。町の名前が最後の砦になっている状態だ」
久遠は窓の外を見つめたまま、声を落とした。
「町の名前が消えれば、灯も消える。あの洗濯物も、あの扉も、あの声も。全部消えて、白い町に吸収される。そして白い町も——もう片方がなくなれば存在する理由がない。二つとも、消える」
列車が町の端を通り過ぎた。
速度が戻り始める。
こよいは窓から顔を離さなかった。遠ざかる町を見ている。
二つの輪郭は、まだ重なりきっていない。
わずかな隙間を残して、灯のある町と白い町が並んでいる。時計塔の針が、右側では動き、左側では止まっていた。
「あの町に、名前はあるの」
「あった。目録に記録がある。けれど——」
久遠は言葉を止めた。
目録を開き、該当する頁を探す。見つけた頁の文字は半分が漂白されていて、町の名前の最初の一文字しか読めなかった。
「残っているのは、一文字だけだ」
列車が加速した。
町が小さくなっていく。こよいは座席に座り直し、巾着を膝の上に置いた。
名前たちの震えが、少しずつ静まっていく。
あさひが窓を背にして座り、天井を見上げた。
「見てるだけか」
「今は、そうだ」
久遠の声は平坦だった。
けれどその平坦さの裏に、こよいは苛立ちとは違う何かを聞いた。
見ていることしかできない。
それでも目を逸らさないことに、意味があるのか。
こよいには分からなかった。
おたまが窓枠へ前脚を置き、二つの町が重なる地点で小鈴を鳴らした。音は右からも左からも返らず、最初の一文字だけが目録の上で震えた。久遠はその文字に印をつける。今は介入できなくても、原本へ着けば残りを探すという行動目標が一つ増えた。
ただ、二つの町が重なりきる前に列車が通り過ぎたことを、幸運とは思えなかった。




