第414話 砂が埋める名
列車が止まった場所に、砂があった。
線路の上にまで溢れ出している。車輪が砂を噛んで軋み、それ以上進めなくなったのだ。南から流れ込んだ砂が、駅舎の床も待合の椅子も、全てを薄い層で覆っていた。
三人は列車を降りた。
おたまは砂へ飛び降りかけ、前脚を宙で止めた。砂粒の間から、ごく弱い一画分の熱が上がっている。こよいが先に布を敷くと、猫はその上へ降り、小鈴の振動で熱のある粒だけを細かく揺らした。
靴底に、ざらりとした感触がある。砂粒が大きい。普通の砂ではなかった。乾いた風が吹き抜けるたびに、砂粒が石畳の上を転がり、硬い乾いた音を立てた。駅舎の柱にも砂が吹きつけられ、木肌が細かく削られている。
こよいは足を止めた。
巾着が震えている。微かだが、確かに。足元の砂に反応している。
久遠が膝をつき、砂を一摘み取って義眼に近づけた。蒼光が砂粒を照らす。
「名前だ」
声が硬くなった。
「砂粒の一つ一つに、文字の欠片が混ざっている。読めるほどの形は残っていない。だが、ひらがなの一画分くらいの破片がある」
砕けた名前だった。漂白によって元の形を失った名前が、砂と一緒に南から運ばれてきている。風の匂いに、焦げた紙のような乾いた苦味が混じっていた。
こよいは砂の上に跪いた。掌を砂の表面に置く。温度がある。砂粒の中に混じった名前の欠片が、微かな熱を保っていた。
「生きてるの」
「生きてはいない。だが、まだ消えてもいない」
久遠が砂を掌に載せたまま言った。
「名前が消える順序がある。意味、音、形の順だ。まず何を表していたかが失われ、次にどう読まれていたかが失われ、最後に文字の形そのものが崩れる。この砂の中の欠片は、形が崩れた段階にある。意味も音も失われている。けれど——」
蒼光が一粒の砂を照らした。
「形の残骸は、まだ完全には消えていない。だから巾着が反応する。名前であったことの痕跡が、砂粒の中にまだ残っている」
あさひが周囲を見回した。
「この砂、踏んで大丈夫か」
「踏み方による」
久遠が立ち上がった。
「強く踏めば砂粒が割れる。割れれば、中の欠片も砕ける。完全に消える。黙って、軽く、できるだけ砂を動かさずに歩く必要がある」
あさひは頷いた。先頭に立ち、足の置き方を変えた。踵から爪先へ、体重を分散させて着地する。砂が沈むのではなく、撫でるように通過する歩き方だった。
こよいは呼吸を整えた。息の音を消し、神々の脈動にだけ呼吸を合わせた。名前の欠片が混じった砂の上を歩くには、呼吸さえも軽くしなければならなかった。
三人は砂の駅を歩いた。
声を出さなかった。足音を立てなかった。砂の中に眠る名前の欠片を、一つも砕かずに通り抜けるために。天井から差し込む薄い光が砂の表面を照らし、無数の粒が微かに輝いている。その光は名前の残骸が放つものだった。死にきれない文字の明滅が、砂の駅を淡い金色に染めていた。
途中で、こよいは一粒だけ砂を拾った。
指先に載せると、巾着の脈動が変わった。名前たちが、その砂粒の中の欠片に反応している。知っている名前ではなかった。けれど「名前であったもの」として、認識している。
こよいは砂粒を巾着に入れた。
異物感があった。名前たちの脈動に、わずかなざらつきが混じった。完全な名前と、砕けた欠片が、同じ布の中で脈を交わしている。
「入れたのか」
久遠が振り返った。
「うん。捨てられなかった」
「……意味も音も失われた欠片だ。復元は難しい」
「でも、ここに置いていったら、次に誰かが踏む」
久遠は何も言わなかった。義眼の蒼光が一瞬だけ揺れた。その揺れが承認の合図だと、こよいには分かった。久遠は前を向き直した。
駅の端まで来た。線路の砂が薄くなり、車輪が噛まない程度に戻っている。列車はこの先を走れる。
こよいは振り返った。砂の駅には、三人の足跡がうっすらと残っていた。軽い足跡だった。砂粒を砕いた跡はない。
あさひが列車に乗り込みながら言った。
「砂の中に名前があると知ったら、もう雑に踏めねえな」
「そうだね」
こよいは巾着を握った。中のざらつきが、少しだけ脈動に馴染み始めている。
砂は名前を砕く。だが砕けた名前を運びもする。南から北へ、風に乗って。砂が通る場所には、名前の欠片が撒かれている。それは消滅ではなく、散布だった。
ここで拾えたのは一粒だけで、出所も元の名もまだ分からない。だが南の砂に名前の形が混じるという最初の証拠になった。久遠は粒の角度と風向きだけを記録し、断片を完全な一柱としては数えなかった。
列車が動き出した。窓の外に、砂の平原が広がっている。あの砂の中にも、欠片が混じっているのだろう。全部は拾えない。だが、拾えるものは拾った。踏まずに通り抜けた。
巾着の中で、砂粒の欠片が他の名前たちの脈動に少しずつ溶けていく。完全な名前にはなれない。けれど、拾われた。それだけが、今のこよいにできることだった。
みんなの中で眠る名前は、独りで消える名前より、ずっと温かい。こよいは巾着を胸に抱き、その温もりを確かめた。拾えたのは、欠片ひとつ。それでも、独りにさせずに済んだ。
巾着の温もりが、指先から胸へ伝わってくる。数え切れない名前の中の、たった一つの欠片。けれど、その一つを見捨てなかったことに、意味があると信じたかった。




