第413話 風が消す線
最初に気づいたのは、あさひだった。
「壁だ。亀裂が入ってる」
列車の進行方向に向かって左側、窓と窓のあいだの壁面に、髪の毛一本分ほどの線が走っている。
こよいには見えなかった。あさひが指先で示して、ようやく分かる。
壁の塗装に沿って、縦に一筋。
久遠が義眼を向けた。
蒼光が壁面を舐めるように這い、亀裂の深さを測る。
「構造的な損傷じゃない。壁そのものは壊れていない。だが——隙間がある。外と中が、ここで繋がっている」
繋がっている、という言葉が消えないうちに、風が入ってきた。
音はしなかった。
風が吹くときに伴う音——木の葉が鳴る音、布がはためく音、空気が耳を叩く音——そのどれもがなかった。
無音の風だった。
こよいの髪が揺れない。衣服もなびかない。
風は目に見えず、肌にも触れない。
ただ、通った場所の色が消えた。
壁の塗装が白くなった。もともと薄い灰色だった壁が、亀裂の周囲から円を描くように脱色されていく。塗料が剥がれたのではない。色だけが抜けた。
「触るな」
久遠が鋭く言った。
こよいの手が止まる。
「この風は消す。物理的な風じゃない。通過した場所から情報を奪う。色、形、質感——表面に残っている記録を削り取る風だ」
壁の白い円が広がっている。
ゆっくりと、けれど確実に。
あさひが視線を床に落とした。
床板の上に、一本の線が引かれていた。赤い塗料で、壁際から壁際まで、車両を横断するように引かれた直線。
「この線、何だ」
「路線図の一部だ。かつてこの列車が走っていた路線のうち、廃線になった区間を示している。車掌が残した記録だろう。もう存在しない線路の、最後の痕跡だ」
風が、その線に触れた。
赤い塗料が端から消えていく。左から右へ、線をなぞるように白くなっていく。消えた部分は白ではなく、何もない色だった。もともとそこに線など引かれていなかったかのように、床板の木目だけが残った。
「消されてる」
こよいが声を漏らした。
「路線の記録が消えている。この線がなくなったら、あの路線があったことを誰も——」
「知らなくなる。目録にも載っていない廃線だ。この床の線が最後だった」
久遠は目録を胸元に引き寄せた。
表紙を手のひらで覆い、風から頁を隠すようにしている。
「目録を風に晒すわけにいかない。余白の隠し文字がまだ読み切れていない。ここで消されたら取り返しがつかない」
赤い線は半分まで消えていた。
風は見えないが、消えていく線の速度で、どこを通っているかが分かる。亀裂から入り、床を這い、線を辿っている。
あさひが立ち上がった。
布に包んだままの大剣を背から下ろし、亀裂の前に立った。
「塞ぐ」
包んだ剣の平たい面を壁に押し当て、亀裂を覆った。
剣と壁のあいだに、わずかな隙間が残る。あさひは自分の外套を脱ぎ、丸めて剣と壁の隙間に押し込んだ。
風が止まった。
車内の空気が、一瞬だけ重くなった。閉じ込められた空気が行き場を失ったように、耳の奥で圧が変わる。
こよいは床を見た。
赤い線は三分の一だけ残っていた。左端から中央を過ぎたあたりまでが消え、右側の短い区間だけが、かすかに赤い痕跡を留めている。
「……残った」
「全部じゃねえ。だが、全部消えるよりましだ」
あさひは剣を壁に押し当てたまま、片手で布越しに柄を握り直した。
外套が詰め物になって、亀裂を塞いでいる。風はもう入ってこない。
久遠が床に膝をついた。
残った赤い線に蒼光を当て、目録の空白の頁を開いて、線の位置と長さを書き写している。
「消えた区間は復元できない。だが、残った区間から路線の方向と接続先は推測できる。記録しておく」
「消えた床は元に戻るのか」
こよいが訊いた。
久遠は首を振った。
「戻らない。風が通った場所の情報は削られた。木目は残っているが、そこに線があったという事実は消えている。床にとっては、最初からなかったのと同じだ」
こよいは消えた床の面を見つめた。
他の場所と変わらない木目。何の痕跡もない。
ほんの数秒前まで、そこに赤い線があったことを、こよいの目は覚えている。けれど床は忘れていた。
巾着がかすかに震えた。
名前たちは風の間も黙っていた。声を出せば、名前もまた消される対象になる。
あさひが壁から離れた。
剣を背に戻し、外套を肩にかけ直す。亀裂は外套の繊維で塞がれたまま、静かだった。
「次はもっと太い亀裂が来るかもしれねえ」
「そうだな。壁が弱くなっている。漂白が列車の構造そのものを削り始めているんだろう」
久遠は目録に書き写した線の記録を確認し、頁を閉じた。
列車は走り続けている。
おたまは消え残った赤い線の端に座り、小鈴を一度鳴らした。三分の一の線が同じ拍で明滅する。意味はまだ読めなくても、記録が死んでいないことだけは分かった。
車輪の音だけが変わらず響いていた。床の赤い線の残りが、振動に合わせてわずかに揺れている。
消えなかった三分の一。
それが何を指しているのか、まだ誰にも分からなかった。
分からないものを、分からないまま抱えて進む。それも旅の一部だった。こよいは指し示す先の闇を見つめ、答えの出ない問いを胸の奥へしまった。いつか意味が分かる日まで、この違和感を忘れずにおこう——分からないことを抱える強さも、旅が教えてくれたものの一つだった。
闇の奥で、何かがまだ、答えを待っていた。




