↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第14章 風の残像

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
413/438

第413話 風が消す線

挿絵(By みてみん)


最初に気づいたのは、あさひだった。


 「壁だ。亀裂(きれつ)が入ってる」


 列車(れっしゃ)の進行方向に向かって左側、窓と窓のあいだの壁面に、髪の毛一本分ほどの線が走っている。

 こよいには見えなかった。あさひが指先で示して、ようやく分かる。


 壁の塗装(とそう)に沿って、縦に一筋。


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けた。

 蒼光(そうこう)が壁面を舐(な)めるように這(は)い、亀裂(きれつ)の深さを測る。


 「構造的な損傷じゃない。壁そのものは壊れていない。だが——隙間(すきま)がある。外と中が、ここで繋(つな)がっている」


 繋(つな)がっている、という言葉が消えないうちに、風が入ってきた。


 音はしなかった。

 風が吹くときに伴う音——木の葉が鳴る音、布がはためく音、空気が耳を叩(たた)く音——そのどれもがなかった。

 無音の風だった。


 こよいの髪が揺れない。衣服もなびかない。

 風は目に見えず、肌にも触れない。


 ただ、通った場所の色が消えた。


 壁の塗装(とそう)が白くなった。もともと薄い灰色だった壁が、亀裂(きれつ)の周囲から円を描くように脱色(だっしょく)されていく。塗料が剥(は)がれたのではない。色だけが抜けた。


 「触るな」


 久遠(くおん)が鋭く言った。

 こよいの手が止まる。


 「この風は消す。物理的な風じゃない。通過した場所から情報を奪う。色、形、質感——表面に残っている記録(きろく)を削り取る風だ」


 壁の白い円が広がっている。

 ゆっくりと、けれど確実に。


 あさひが視線を床に落とした。

 床板の上に、一本の線が引かれていた。赤い塗料で、壁際から壁際まで、車両を横断するように引かれた直線。


 「この線、何だ」


 「路線図の一部だ。かつてこの列車(れっしゃ)が走っていた路線のうち、廃線(はいせん)になった区間を示している。車掌(しゃしょう)が残した記録(きろく)だろう。もう存在しない線路の、最後の痕跡(こんせき)だ」


 風が、その線に触れた。


 赤い塗料が端から消えていく。左から右へ、線をなぞるように白くなっていく。消えた部分は白ではなく、何もない色だった。もともとそこに線など引かれていなかったかのように、床板の木目だけが残った。


 「消されてる」


 こよいが声を漏らした。


 「路線の記録(きろく)が消えている。この線がなくなったら、あの路線があったことを誰も——」


 「知らなくなる。目録(もくろく)にも載っていない廃線(はいせん)だ。この床の線が最後だった」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を胸元に引き寄せた。

 表紙を手のひらで覆(おお)い、風から頁(ページ)を隠すようにしている。


 「目録(もくろく)を風に晒(さら)すわけにいかない。余白(よはく)の隠し文字がまだ読み切れていない。ここで消されたら取り返しがつかない」


 赤い線は半分まで消えていた。

 風は見えないが、消えていく線の速度で、どこを通っているかが分かる。亀裂(きれつ)から入り、床を這(は)い、線を辿(たど)っている。


 あさひが立ち上がった。

 布に包んだままの大剣を背から下ろし、亀裂(きれつ)の前に立った。


 「塞(ふさ)ぐ」


 包んだ剣の平たい面を壁に押し当て、亀裂(きれつ)を覆った。

 剣と壁のあいだに、わずかな隙間(すきま)が残る。あさひは自分の外套(がいとう)を脱ぎ、丸めて剣と壁の隙間(すきま)に押し込んだ。


 風が止まった。


 車内の空気が、一瞬だけ重くなった。閉じ込められた空気が行き場を失ったように、耳の奥で圧(あつ)が変わる。


 こよいは床を見た。

 赤い線は三分の一だけ残っていた。左端から中央を過ぎたあたりまでが消え、右側の短い区間だけが、かすかに赤い痕跡(こんせき)を留めている。


 「……残った」


 「全部じゃねえ。だが、全部消えるよりましだ」


 あさひは剣を壁に押し当てたまま、片手で布越しに柄(つか)を握り直した。

 外套(がいとう)が詰め物になって、亀裂(きれつ)を塞いでいる。風はもう入ってこない。


 久遠(くおん)が床に膝(ひざ)をついた。

 残った赤い線に蒼光(そうこう)を当て、目録(もくろく)の空白の頁(ページ)を開いて、線の位置と長さを書き写している。


 「消えた区間は復元(ふくげん)できない。だが、残った区間から路線の方向と接続先は推測できる。記録(きろく)しておく」


 「消えた床は元に戻るのか」


 こよいが訊いた。

 久遠(くおん)は首を振った。


 「戻らない。風が通った場所の情報は削られた。木目は残っているが、そこに線があったという事実は消えている。床にとっては、最初からなかったのと同じだ」


 こよいは消えた床の面を見つめた。

 他の場所と変わらない木目。何の痕跡(こんせき)もない。

 ほんの数秒前まで、そこに赤い線があったことを、こよいの目は覚えている。けれど床は忘れていた。


 巾着(きんちゃく)がかすかに震えた。

 名前たちは風の間も黙っていた。声を出せば、名前もまた消される対象になる。


 あさひが壁から離れた。

 剣を背に戻し、外套(がいとう)を肩にかけ直す。亀裂(きれつ)は外套(がいとう)の繊維(せんい)で塞がれたまま、静かだった。


 「次はもっと太い亀裂(きれつ)が来るかもしれねえ」


 「そうだな。壁が弱くなっている。漂白(ひょうはく)が列車(れっしゃ)の構造そのものを削り始めているんだろう」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)に書き写した線の記録(きろく)を確認し、頁(ページ)を閉じた。


 列車(れっしゃ)は走り続けている。


 おたまは消え残った赤い線の端に座り、小鈴を一度鳴らした。三分の一の線が同じ拍で明滅する。意味はまだ読めなくても、記録が死んでいないことだけは分かった。

 車輪の音だけが変わらず響いていた。床の赤い線の残りが、振動に合わせてわずかに揺れている。


 消えなかった三分の一。

 それが何を指しているのか、まだ誰にも分からなかった。

 分からないものを、分からないまま抱えて進む。それも旅の一部だった。こよいは指し示す先の闇を見つめ、答えの出ない問いを胸の奥へしまった。いつか意味が分かる日まで、この違和感を忘れずにおこう——分からないことを抱える強さも、旅が教えてくれたものの一つだった。

 闇の奥で、何かがまだ、答えを待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。