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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第14章 風の残像

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第412話 余白の裂け

挿絵(By みてみん)


金色の雨が止むと、柱の森の外周に一本の線路が浮かんだ。経蔵(きょうぞう)の防壁内を巡回する霧列車(きりれっしゃ)が、次の楔へ向かう者を拾いに来たのだ。おたまが先に乗り、三人が続く。第一外門へ戻る列車ではなく、外郭をさらに内側へ進む環状線だった。


 走り出して間もなく、目録(もくろく)の頁(ページ)が、音を立てた。

 紙が裂ける音ではない。もっと細い、糸が切れるような音だった。


 久遠(くおん)が手を止めた。

 義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頁(ページ)の端に集まる。


 余白(よはく)だった。

 文字と文字のあいだ、行と行のあいだ。本来ならば何も書かれていないはずの隙間に、亀裂(きれつ)が走っている。


 「……目録(もくろく)の余白(よはく)が割れている」


 久遠(くおん)は声を低くして言った。

 指先で亀裂(きれつ)の縁(ふち)をなぞる。白い紙の断面(だんめん)から、かすかに茶色い繊維(せんい)が覗(のぞ)いていた。


 「割れた、というより剥(は)がれたんだ。上から貼った紙が浮いている。余白(よはく)じゃない。これは——蓋(ふた)だ」


 こよいは身を乗り出した。

 久遠(くおん)が爪の先で慎重に紙の層をめくると、その下から文字が現れた。


 薄い墨(すみ)で書かれた、細い字。

 目録(もくろく)の本文とは筆跡(ひっせき)が違う。本文は均一で端正な書体だが、余白(よはく)の下の文字は急いで書いたように傾いていた。


 「隠し書きだ」


 久遠(くおん)の蒼光(そうこう)が文字の上を走った。


 「この目録(もくろく)を最初に編んだ者たちが、余白(よはく)の下に書き残していた。漂白(ひょうはく)が進んで表層の糊(のり)が弱まったから、今になって剥(は)がれ始めたんだろう」


 あさひが座席の背もたれに肘を置き、目録(もくろく)を覗き込んだ。


 「何が書いてある」


 「座標(ざひょう)だ。場所の名前と、そこへの道順。それと——警告」


 久遠(くおん)は頁(ページ)を傾けて光を当てた。

 隠し文字の列が、余白(よはく)の亀裂(きれつ)に沿って続いている。


 「観測者(かんそくしゃ)が意図的に目録(もくろく)から削った場所がある。地図にも路線図にも載せなかった場所だ。編者たちはそれを知っていて、余白(よはく)の下に記録(きろく)を残した」


 「なんで表に書かなかったんだ」


 「書けば消される。観測者(かんそくしゃ)は目録(もくろく)を定期的に検閲(けんえつ)していた。だから余白(よはく)に紙を重ねて、文字を隠した。目録(もくろく)そのものを隠れ蓑(みの)にしたんだ」


 列車(れっしゃ)が揺れた。

 振動で目録(もくろく)の別の頁(ページ)がぱらりとめくれ、そこにも余白(よはく)の亀裂(きれつ)が走っているのが見えた。一箇所ではない。目録(もくろく)のあちこちで、隠された文字が表に出ようとしている。


 こよいは自分の膝(ひざ)の上に広がった頁(ページ)を見下ろした。

 亀裂(きれつ)の端から、ひらがなが一文字だけ顔を出している。


 「……久遠(くおん)くん、ここ」


 久遠(くおん)が視線を移した。

 蒼光(そうこう)がその文字を照らす。


 「名前だ。場所の座標(ざひょう)じゃない。誰かの名前が書かれている」


 「目録(もくろく)の編者の名前?」


 「いや。筆跡(ひっせき)が違う。本文とも、隠し書きとも違う。三人目の手だ」


 こよいはその文字にそっと指先を近づけた。触れてはいない。けれど指の腹に、かすかな温度を感じた。


 巾着(きんちゃく)が応えるように脈打った。

 一度だけ、短く。


 「この名前、ぼくは知らない」


 こよいは呟(つぶや)いた。

 ひらがな三文字の名前だった。読めるのに、意味が分からない。巾着(きんちゃく)の中の名前たちとも違う振動をしている。


 久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を細めた。


 「目録(もくろく)の余白(よはく)に、編者でもない誰かが名前を書き残した。漂白(ひょうはく)で糊(のり)が弱まるまで、誰の目にも触れなかった名前だ」


 「消されるのを知って、隠したのかな」


 「分からない。だが——この名前は、まだ生きている」


 久遠(くおん)の声が硬くなった。

 蒼光(そうこう)が揺れる。


 「文字がまだ光っている。消えた名前の残滓(ざんし)じゃない。漂白(ひょうはく)に晒(さら)されながらも、ここに留まり続けた名前だ」


 あさひが布包みの石突(いしづき)で床を叩いた。

 低い音が車内に響く。


 「目録(もくろく)が勝手に開いたわけじゃねえだろう。漂白(ひょうはく)が進んで、今まで見えなかったものが見え始めてる。それは悪い話じゃねえ」


 「悪くはない。だが、観測者(かんそくしゃ)が隠したかった場所が露(あら)わになるということは——俺たちだけでなく、漂白(ひょうはく)にとっても見えるようになるということだ」


 沈黙(ちんもく)が落ちた。

 列車(れっしゃ)の車輪が線路の継ぎ目を越える音だけが、規則的に響いている。


 こよいは目録(もくろく)の頁(ページ)に視線を戻した。

 余白(よはく)の亀裂(きれつ)はゆっくりと広がり続けている。糊(のり)が乾いてひび割れるように、少しずつ、確実に。


 その亀裂(きれつ)の奥に、まだ読めない文字がいくつも眠っている。糊(のり)が剥(は)がれるたびに、紙の層が微かに音を立てた。


 知られたくなかった言葉が、時間をかけて表に出てくる。

 それが救いなのか、それとも新しい危険の始まりなのか。


 こよいには、まだ分からなかった。列車(れっしゃ)の振動(しんどう)が、目録(もくろく)の頁(ページ)を細かく揺らしている。

 ただ巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、余白(よはく)の名前に向けて静かに脈打っていることだけが、確かだった。


 おたまは裂けた余白へ前脚を置かず、その周囲を一周して座った。見えていない文字の上だけ小鈴の反響が鈍い。久遠(くおん)は反響の境をなぞり、まだ剥がれていない次の層の広さを記録した。

 見えない文字の上を、猫だけが知っている。裂けた余白の縁を、久遠(くおん)はおたまの反響を頼りになぞった。消された名前の輪郭(りんかく)が、猫の耳の中にだけ、まだ残っていた。

 消された名前の輪郭を、猫だけが覚えている。その静かな証言に、久遠(くおん)は耳を澄ませ続けた。

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