第410話 祭壇の解放
金色の柱に刻まれた手順を、久遠が読み上げた。
久遠が読み上げるあいだに、こよいは柱の森の中央へ進み、そこに鎮座する黒い祭壇の前に立っていた。黒曜石のように滑らかな表面に、こよい自身の顔が映り込んでいる。映っているのは自分の顔だけではなかった。笑顔、涙、怒り、祈り——封じ込められた神々が最後に見せた表情の残像が、こよいの顔の上に重なっていた。
手を伸ばした。
指先が祭壇に触れた瞬間、声が流れ込んできた。
記録ではなかった。生きていた神々の声だった。霊核を削られながらも、最後まで人間を愛そうとした声。雨を降らせたかった。風を穏やかに吹かせたかった。大地を実らせたかった。一柱ずつ、こよいの中を通過していく。
山の神がいた。麓の村を土砂崩れから守り続けた記録。川の神がいた。夏の日に子どもたちが浅瀬で泳ぐのを見守り続けた記録。風の神がいた。旅人の背中をそっと押して、次の宿場町まで導いた記録。
どれも、感情を切り離され、数値だけが残っていた。
こよいの膝が崩れかけた。情報の量が、これまでの旅で経験したどんな霊的接触をも超えていた。意識が途切れそうになるたびに、巾着の中の神々が温かく脈打ち、心臓と同じリズムで鼓動することで、辛うじて正気を保たせてくれた。
手を離さなかった。
この声を聞かなければならない。この痛みを知らなければならない。こよいは神雧の旅人であり、記憶を受け止めることが、与えられた役割だった。
背後で、あさひの剣が影を薙ぎ払う音が響いていた。鋼が闇を裂くたびに火花が散り、柱の表面を一瞬だけ照らした。祭壇に近づこうとする影の群れを、あさひが一人で食い止めている。振り返る余裕はなかった。
久遠が義眼を限界まで開いた。祭壇の奥から浮かび上がる暗号を、一つ残らず読み取ろうとしている。煤のような涙が頬を伝い、それを拭おうともしなかった。
「見つけた」
久遠の声が低く響いた。
「この祭壇の核に、楔がある。神々の自由を物理的に閉じ込めた結晶だ。この墓場の全ての柱が、この一点に繋がっている」
こよいの掌の下で、祭壇が震えた。楔が応えている。
「壊すのか」
あさひが影を薙ぎ払いながら訊いた。
「壊すんじゃない。緩める。一気に壊せば、ここに封じ込められた記録が暴流になって三人とも呑まれる。楔を一段だけ緩めて、封印の圧力を下げる」
久遠が目録を祭壇の横に置いた。頁が風もないのに開き、金色の柱から読み取った手順が蒼い光で浮かび上がった。
「こよい。巾着を祭壇に近づけろ。名前たちの脈動が、楔の周波数を変える」
おたまが祭壇の周囲を一周し、影の群れが湧く三箇所で小鈴を鳴らした。あさひは音を合図に剣を振り、こよいの背へ届く前に影を断つ。久遠が楔を読む時間は、その小さな警報によって稼がれた。
こよいは巾着を祭壇の上に置いた。布越しに、中の名前たちが震えるのを感じた。恐怖ではなかった。共鳴だった。封じ込められた名前たちと、巾着の中の名前たちが、同じ周波数で脈を打ち始めた。
祭壇の表面に亀裂が走った。一本。細い。そこから、温もりのある風が漏れ出した。
風は柱の森を吹き抜け、柱に刻まれた末期の言葉を揺らした。「帰りたかった」という振動が、ほんの少しだけ変わった。
「帰れるかもしれない」
変わったのは語尾だけだった。けれどその一音の差が、墓場の空気を確かに変えた。
灰色だった柱の一本に、山の緑が一筋だけ戻った。別の柱には川面の青、もう一本には夕暮れの風の色。完全な解放ではない。それでも、数値へ削られた記録が、自分の景色を思い出し始めていた。
あさひが影の最後の一体を薙ぎ払い、剣を地面に突き立てて息を整えた。
「全部は開かなかったぞ」
「全部は開けない。今日はこの一箇所だけだ」
久遠が目録を拾い上げた。祭壇の亀裂から漏れる風が、頁の端を揺らしている。
「だが手順は分かった。楔の構造が読めた。次に同じものに出会ったとき、もっと早く緩められる」
こよいは巾着を祭壇から持ち上げた。名前たちの脈動が、さっきより少しだけ強くなっている。封じ込められた名前たちの脈が、巾着の中の名前たちに乗り移ったように。
祭壇の亀裂から漏れる風は、まだ温かかった。
一箇所。たった一箇所の亀裂。それでも、柱の森の温度が変わった。こよいの頬に触れる空気が、ほんのわずかだけ生きている側に傾いていた。
三人は柱の森を抜けた。背後で、末期の声がまだ擦れ合っている。けれどその中に、一音だけ違う響きが混じっていた。
帰れるかもしれない。
風がこよいの髪を揺らした。亀裂から漏れ出した温もりが、柱の森の冷たい空気を少しだけ和らげている。その風を頬に受けながら、こよいは一音の変化を胸の奥に刻んだ。
その一音が、こよいの胸の中で小さく灯り続けていた。
名もなき歌の一音は、消えなかった。誰かが口ずさんだ旋律の切れ端は、歌った者が忘れても、聴いた者の胸で灯り続ける。こよいは、その温もりを消さないように、そっと息を殺した。
消えない歌が一つあれば、それを頼りに、次の名前も見つけられる気がした。




