第409話 記録の墓場
柱の森だった。
石でも木でもない。記録が固まって柱になっていた。一本一本に文字が刻まれている。風が吹き抜けるたびに、文字同士が擦れ合い、微かな声のような音を立てた。
「帰りたい」「帰りたかった」
声ではなかった。文字が振動しているだけだった。けれど、こよいの耳にはそう聞こえた。
柱は地平線の向こうまで並んでいた。天井はなく、上は霧で閉ざされている。霧の中から光の粒子が降り注ぎ、柱の表面に触れると弾けて消えた。
「記録の墓場だ」
久遠が義眼を凝らしながら言った。
「柱に刻まれているのは、神々の末期の言葉だ。観測者がここで霊核を解体した。名前から感情を切り離し、無機質な記録に変えた。柱に残っているのは、切り離された後の殻だ」
こよいは一番近くの柱に手を伸ばした。
おたまが先に柱の根元を嗅ぎ、小鈴を鳴らさず身を伏せた。猫の髭に透明な測定糸が一本触れ、過去を引き出せないまま弾かれる。名も記録も持たないおたまは網に読まれないが、その姿で糸の位置を三人へ教えられた。
冷たかった。氷よりも冷たい。触れた指先から体温が奪われていく。だが、その冷たさの奥に、微かな鼓動があった。脈ではない。もっと細い。最後まで消えなかった何かが、柱の芯に一粒だけ残っている。
誰かを想う心の、最後の痕跡だった。
こよいの指先が温もりを伝えた。柱の表面が、触れた場所だけわずかに色を取り戻す。刻まれた文字が淡い金色に光った。一瞬だけ。すぐに灰色に戻った。理の冷気が温もりを押し潰した。
手を離した。指先が白い。
柱と柱のあいだに、透明な糸が張られていた。幾重にも、網のように。
「測定の網だ」
久遠が立ち止まった。
「触れた者の記憶を引き出す装置だ。糸に掛かると、こちら側の記憶が抽出される」
こよいは一歩踏み出すたびに、糸が肌を掠めるのを感じた。過去の記憶が引きずり出されそうになる。仲間との食事、神々の笑顔、雨の日の温もり。それらが糸に絡め取られ、柱に刻まれる「新たな末期の言葉」になりかける。
歯を食いしばった。巾着を押さえ、中の名前たちが怯えるのを掌で宥めながら、足を進めた。
久遠は義眼の蒼光を柱の刻印に当てていた。文字の下に隠された二重三重の暗号が浮かび上がり、瞳の中で解読されていく。義眼の周縁から煤のような涙が一筋、頬を伝った。
それでも目を逸らさなかった。
「裁断の手順が記録されている。感情の切り離し方。名前の分解方法。全部、この柱に刻まれている」
声が低く震えた。研究者としての興奮と、人間としての嫌悪が入り混じっていた。
「解体の手順を知れば、復元の手順も分かる。これは鍵だ」
こよいが訊いた。
「あの子たちの笑顔も、切り離されたの」
「切り離された。だが——」
久遠は頁から顔を上げた。
「捨てられたとは限らない。切り離されたものが、どこかに保管されている可能性がある。この手順書にはそうした記述がある」
あさひは柱の林の最奥を見ていた。
他とは違う一本の柱が、微かに金色の光を帯びている。末期の嘆きではなく、別の何かが刻まれているように見えた。
「あの柱だ」
あさひが顎で示した。
「光ってるのが一本だけある。あそこまで行く」
こよいは巾着を握り直した。測定の網が密になっている。奥に進むほど糸が細く、数が増えた。
あさひが先に立った。影を抜けたところで布を巻き直した剣で、糸を横に払う。糸は切れず、包みに巻き付いた。あさひはそれを振り払い、次の糸を払い、三人の通る道を一本だけ開けた。
金色の柱の前に立った。
刻まれていたのは末期の言葉ではなかった。
「読み方」だった。
この墓場の記録を、どう読めば名前を取り戻せるか。解体された記録を、どう組み直せば元の姿に戻せるか。それが、金色の文字で刻まれていた。
久遠が息を呑んだ。義眼の蒼光が強まり、文字を一行ずつ焼き付けていく。
「……残した奴がいる。観測者の中に、解放の手順を残した奴がいた」
柱の森に、末期の声が擦れ合って響いていた。「帰りたかった」という声の中に、こよいは別の声を聞いた。
「読め」
それは命令ではなかった。祈りだった。この記録を読むことが、ここに閉じ込められた名前たちを解放する最初の一歩になる。金色の柱を刻んだ誰かは、それを知っていた。
こよいは巾着の温もりを確かめた。名前たちが、金色の文字に向かって静かに脈打っている。布越しに伝わる脈動は、柱の金色の文字と同じ拍を刻んでいた。霧の中から降る光の粒子が、金色の柱の周囲だけは弾けずに吸い込まれていく。
読むことが鍵だった。
ただし、読めば観測者にも読者の位置が伝わる。金色の柱の奥で、別の糸が一本だけ震え始めた。久遠は必要な手順だけを義眼へ焼き付け、柱から目を離した。鍵を得た代わりに、こちらも見つかったのだ。
読むことは、見られること。それでも読まなければ、道は分からない。久遠は危険を承知で、震える一本の糸の先へ、義眼の光を差し向けた。金色の柱の奥で、何かがこちらを見返した気がした。
見返してくる何かの視線を、久遠は逸らさなかった。




