第403話 選択の裂け
広場を見渡すと、石畳に亀裂が走っていた。
一本の線ではなかった。地面を左右に引き裂くように、裂け目が広がっている。井戸を中心にして、東と西で地面の色が違った。東は枯れた茶。西は灰に近い白。亀裂の幅は手のひら一枚分ほどで、底は暗い。覗き込んでも先が見えなかった。石畳の表面を走る線は、最初は真っ直ぐだったものが途中で蛇行し、広場の端まで伸びている。
「……裂けてる」
こよいが呟いた。
久遠が義眼を地面に向けた。蒼光が裂け目の底を照らす。光は亀裂の中に吸い込まれ、壁面に金色の蔓の断面が見えた。根が亀裂に沿って走っている。蔓の断面から微かな光が漏れているが、通常の脈動ではなかった。途切れがちな明滅。息を止めて耐えている者の、浅い呼吸に似ていた。
「選択の痕だ」
久遠が膝をついた。亀裂の縁に手を置き、指先で壁面の蔓の断面に触れている。指が金色に染まり、すぐに色が引いた。
「この土地は、一度分岐した。どちらかを選ぶべき場所で、どちらも選ばなかった。だから地面ごと割れている」
久遠は義眼を東側に向け、次に西側に向けた。蒼光の色が微かに変わる。東を照らしたときは通常の青白さだったが、西を照らしたとき、光がくすんだ。情報の密度が違うのだ。
亀裂の東側から、乾いた風が吹く。風には土と草の匂いが混じっていた。根が張った土地の匂い。西側からは、何も来ない。風もなければ音もなかった。空気が停滞している。西の石畳を踏んだとき、足の裏に伝わるはずの冷たさがなかった。温度そのものが抜け落ちていて、そこに何も存在しないかのような虚ろさだけが靴底に残った。
あさひが亀裂を跨いで立ち、両方の地面を踏み比べた。左足を東に、右足を西に。剣の重さが右側にかかり、布包みの石突が西の地面に触れている。
「東は硬い。西は柔い。崩れかけてる」
あさひは右足を軽く踏み込んだ。西の石畳の角が小さく欠け、砂粒になって亀裂の中に落ちた。音はしなかった。砂粒が底に届く前に消えたのだと、こよいは思った。
東の石畳には罅がある。古い傷跡のように走る細い線。だがその罅の中に、金色の筋が通っていた。蔓が石の傷を縫うように走り、割れた石畳を繋ぎ止めている。壊れてはいるが、修復されつつある地面。
西の石畳には罅がなかった。滑らかだった。けれどその滑らかさは、健全さの証ではない。ひび割れる力すら失った石の、静かな諦めだった。
こよいは巾着を握った。神々が揺れる。二十七の脈が、東側に向かって波を送っていた。布越しに伝わる波動が右手に偏り、東を指している。西には届いていない。名前たちは西を見ていなかった。見ようとしていないのか、見えないのか。
東は名前が生き残れる道。西は名前が薄れていく道。
二十七の脈動は同じ方向を指していた。一つの例外もなく、東。こよいが星野で最初に呼び戻した名前も、宵波浜で掬い上げた名前も、露野の井戸から浮かんできた名前も、等しく東へ向かっている。名前たちは知っているのだ。自分たちが生き延びられる方角を。
こよいは亀裂の縁に立った。おたまは東西の境に座り、西へ一度だけ顔を向けた。名のない猫には、名前たちが選ばない道も見えている。それでも次の一歩は東へ置いた。小さな足跡が、こよいより先に選択の線を越えた。
下を覗くと、金色の蔓が一本だけ、亀裂の底で細く光っている。蔓は東に向かって伸びていた。西には一本も走っていない。根脈が、東だけを選んでいた。
こよいは東側に足を置いた。
「こっちだ」
迷いのない声だった。巾着の脈動に導かれたが、最後に足を踏み出したのは自分の意志だった。名前がより多く残る方を、こよいは選んだ。石畳を踏んだ瞬間、足の裏に温もりが返ってきた。東の地面は生きている。地下の蔓の体温が、石を通して足裏まで昇ってきていた。
亀裂の底で、金色の蔓が一本、東側に向かって伸びていく。こよいの選択に応えるように。蔓の先端が石の隙間に差し込まれ、新しい根を下ろした。選ばれた道に、根が定着する。
あさひが黙って前に出た。東の道を先に歩く。布包みの大剣が背で揺れ、石突が石畳を掠める音だけが、乾いた風の中に落ちた。あさひの足音は重い。一歩ごとに東の地面が応え、蔓の脈動がわずかに強まる。歩く者がいるということが、道を道として保つ力になっているのかもしれなかった。
久遠が亀裂を一度だけ振り返った。義眼の蒼光が西側を照らす。光はやはりくすんで返ってきた。蒼光が映し出せるものが、西にはもう少ない。
「西側はこのまま崩れるだろう。選ばれなかった道は、やがて道でなくなる」
「……かわいそう」
こよいは振り返らずに言った。巾着を胸の前で抱えている。西を選ばなかったことは正しい。名前たちのために正しい。けれど正しさの中に、置いてきたものの重さがある。
「かわいそうかどうかは、選んだ後に考えることだ。今は前を見ろ」
久遠の声は硬かったが、歩調はこよいに合わせて緩めていた。
こよいは前を向いた。
東の道は、広場を出ると緩い坂になっていた。坂の両側に枯れた草が生えている。草の根元に金色の蔓が走り、枯れた茎を支えるように巻きついていた。枯れてもなお立っている草。蔓が倒れることを許さない。
背後で、かすかに石が崩れる音がした。振り返りたかったが、振り返らなかった。西の地面が、少しずつ亀裂に呑まれている。選ばれなかった道が閉じていく音だった。
選択の裂け目は閉じない。けれど、その上を三人の足跡が横切っていった。選ぶことが道を作る。選ばないことが道を消す。こよいは東へ歩きながら、西に残された沈黙のことを、巾着の温もりで覚えておこうと思った。
坂の上から風が吹いた。乾いているが冷たくはない。蔓が張った土地の匂いがする。その風に押されるように、三人は東へ進んだ。




