第402話 古い井戸の再起
露野の中心に、井戸があった。露を集めた層では、砂に埋もれて見えていなかった井戸だ。
古い。星野のどの井戸よりも古い。石の蓋が二つに割れて、隙間から草が生えている。草は枯れかけていたが、茎の根元にだけ緑が残り、地中から僅かな水を吸い上げて命を繋いでいた。広場の石畳は草に埋もれ、傾いた灯籠の列が沈黙の中に並んでいた。灯籠の笠が一つだけ地面に転がり、苔に覆われて丸い石のようになっていた。
人の気配がない。長い間、誰にも訪れられていない場所だった。灯籠の火袋は割れ、苔が石の表面を覆っている。ここに火を灯す者がいなくなってから、どれほどの年月が過ぎたのか。空気は湿っているが、生きた水の匂いはしない。露野の露が長い年月をかけて石に染み込んだ、古い湿気だった。
あさひが蓋の破片を持ち上げた。重い石が横にずれる。筋肉が腕に浮き上がり、石が地面に落ちたとき、鈍い音が広場に響いて消えた。蓋の下から、金色の光が漏れた。
こよいが息を呑んだ。光は弱い。蝋燭の最後のひと揺れほどの淡さだった。けれど確かに金色で、見覚えがあった。星野の蔓の井戸で見た、あの温かい光と同じ色だった。
久遠が膝をついて、井戸の中を覗いた。義眼の蒼光が暗闇に差し込む。光が石壁に反射し、井戸の内側が蒼と金の二色に照らされた。
「——蔓だ。星野の蔓が、ここまで伸びてきている」
久遠の声に、珍しく驚きが混じっていた。
井戸の壁面を、金色の蔓が這っていた。細い。指よりも細い。けれど確かに生きていて、石の隙間から染み出すように地上に向かって伸びている。蔓の先端には小さな葉が一枚、暗闇の中で金色に光っていた。葉脈が細い線のように走り、その一本一本が微かに脈打っている。
「この井戸は観測者が作ったものじゃない」
久遠が目録と照合した。義眼の蒼光と目録の文字の間を、視線が何度も往復する。頁の上の文字が蔓の脈動に合わせて明滅し、読み取るたびに新しい行が浮かび上がってくる。
「最初の神が、千年前に自ら掘った井戸だ。名前が帰る場所として。観測者が支配する以前の、本来の井戸」
最初の神の名は目録にも残っていない。掘った者が自分の名を井戸へ刻まなかったのか、それとも後から消されたのか。久遠は断定せず、石に残る工具の幅と手の向きだけを書き留めた。正体ではなく、誰かが帰る場所を作った行為は消えていなかった。
久遠の声が低く震えた。目録にこの座標は記載されていない。観測者の管理台帳から漏れた場所。千年の間、観測の目を逃れてきた井戸だった。管理の網の隙間に、ひっそりと口を開けて待っていた場所。
こよいは井戸の縁に手を置いた。脈動があった。星野の蔓の井戸と同じリズム。距離を超えて、地下の根で繋がっている。掌に伝わる振動は、巾着の中の神々の脈と重なった。石の冷たさの奥に、体温に近い温もりが眠っている。
井戸の底から、光の塊がゆっくりと浮き上がってきた。蔓に支えられるようにして、光が上昇してくる。ひらがな二文字分の小さな光。地下水脈を通って、遠い場所からここまで来た名前だった。光は途中で何度か揺らぎ、蔓の葉に触れるたびに少しだけ明るさを増した。蔓が名前を励ましているように見えた。
こよいは巾着を開いた。光が布の口に吸い寄せられるように入り、神々の脈動と一つになった。温もりが巾着全体に広がり、布が一瞬だけ金色に透けた。
五十一柱の目録で、四十一柱目。水脈に残された七柱の、四柱目だった。巾着では二十七番目の脈が目を覚ました。
久遠が立ち上がった。膝に付いた苔と砂を払い、目録を脇に抱え直す。
「名前の根が、観測者の管理下にない古い井戸を再起動させた。根脈が広がっている。俺たちが歩いた場所の地下で、蔓が勝手に伸びていたんだ」
あさひが蓋の破片を元の位置に戻した。完全には閉まらない。蔓が石の隙間を押し広げていた。あさひは石の位置を何度か調整したが、やがて手を止めた。
「閉じなくていい」
こよいが言った。声が穏やかだった。
「ここは、もう開いてるから」
おたまが割れた蓋へ乗り、井戸の底へ小鈴を響かせた。返ってきた音は一つではない。星野、凪沢、露野へ枝分かれした根の先から、遅れて三つの余韻が戻る。井戸は孤立した穴ではなく、帰る場所同士を結ぶ網になっていた。
草の間を風が吹いた。露野に入ってから初めての、自然の風だった。枯れた草が揺れ、その下に金色の蔓の先端が覗いていた。蔓は地面を這い、草の根元に沿って広場の外へ向かって伸び始めている。露野の露が蔓の葉に一粒、宿っている。透明な水滴の中に、金色の光が閉じ込められていた。
露野の井戸は、千年の眠りから目を覚ました。石の蓋の隙間から漏れる金色の光が、広場の苔を淡く照らしている。二十七の脈が、地下で一つの鼓動を打っている。
目覚めた井戸の底で、千年眠っていた名前がひとつ、ゆっくりと寝返りを打つ気配がした。




