第404話 町の分岐
坂を越えたところで、町が二つに分かれていた。
道が二本あるのではない。同じ石橋の先に、二つの町が重なっている。東側には軒ごとに木札が掛かり、墨で家の名、井戸の名、路地の名まで書かれていた。西側には同じ形の家が並ぶのに、札も表札もない。窓は開き、洗った布が風に揺れている。それでも、暮らす者を呼ぶ言葉だけが一つも見当たらなかった。
橋の中央に立つ道標は、右に「名のある町」、左に「名のない町」と刻まれている。その二行の下には、後から削られた文字の傷があった。
「どちらも経蔵へ続く、と書いてあったらしい」
久遠が傷を義眼でなぞった。蒼光が石粉の奥に残った筆順を拾う。
「名のある町は記録が多い。目録と照合しやすい代わりに、観測者にも見つかる。名のない町は座標を特定されにくいが、俺たち自身の名まで薄くなる可能性がある」
東の町から、鐘が鳴った。すると家々の木札が一斉にこちらを向く。『旅人』『巾着の主』『剣を持つ者』『義眼の者』。まだ名乗っていない三人の呼び名が、濡れた墨で札に浮かんだ。
こよいは一歩退いた。町が歓迎しているのではない。入る前から分類している。
西の町では、誰かが戸口を掃いていた。顔は見える。箒が石を擦る音も聞こえる。けれど久遠の目録には、人影も家も一行たりとも現れない。観測されない代わりに、記録へ助けを求めることもできない場所だった。
あさひが東へ靴先を置いた。木札が増えた。『大剣』『不適合』『護衛』。一歩だけで、あさひという一人の人間が役割の束へ切り分けられていく。
「こっちは駄目だな」
すぐに足を戻す。札の文字は消えたが、墨の染みだけが残った。
「左なら安全なの?」
こよいが訊くと、久遠は答えず、西の路地へ小石を投げた。石は地面へ落ちた瞬間、音も影も失った。拾いに行けば戻せるかもしれない。だが投げたという記憶さえ、こよいの中で薄れかけている。
「安全ではない。観測者から隠れるために、自分まで空白になる道だ」
西の戸口にいた者が、箒を置いた。橋まで歩いてくる。足音はあるのに、近づくほど顔の造作が思い出せなくなった。目を見たはずなのに目の色が残らない。口が動く。
——こちらへ。
音ではなく、忘れた後の意味だけが届いた。こよいの足が左へ半歩ずれる。呼ばれたからではない。呼ばれなかったことが、ひどく楽に思えたのだ。名前を運ぶ役目も、見つけられなかった者への約束も、空白へ入れば背負わずに済む。
巾着の紐が指から滑った。
あさひが手首を掴んだ。強くはない。痛みを与えず、そこにいる重さだけを返す握り方だった。
「楽な方へ行きたいなら、そう言え。町に言わせるな」
こよいは息を吸った。乾いた空気が喉に刺さる。それでも、自分の呼吸だと分かる。西へ向いていた爪先を橋の中央へ戻した。
「行きたくない。忘れたくない」
声にした途端、西の人影が一歩遠ざかった。拒絶されたのではない。言葉を持つ者を記録できず、距離を作ったのだ。
東からは別の誘いが来た。木札の一枚に『こよい』と浮かぶ。正しい音だった。次に『集める者』、その下に『四十一柱の所有者』と続く。
「違う」
こよいは札を睨んだ。
「名前は、ぼくの持ち物じゃない」
札の墨が波打った。『所有者』の三文字だけが滲み、黒い滴になって地面へ落ちる。東の町は何でも記すが、記された側が拒めば、その分類は完全には定着しないらしい。
久遠の前にも札が下がった。『観測者』『不適合』『裏切り』。最後の一語を見た瞬間、義眼の蒼光が鋭くなる。
「読むな」
あさひが言った。
「読めば訂正したくなる。訂正すれば向こうの帳面に残る」
久遠は奥歯を噛み、義眼の光を落とした。札を破ることも、誤りを証明することもしない。分類に返事を与えないという選択は、彼にとって計測を捨てるより難しかった。
「……貸しにしておく」
「誰にだ」
「お前にではない」
あさひが鼻を鳴らす。張り詰めていたこよいの肩から、少しだけ力が抜けた。町は三人を別々の誘惑で分断しようとする。だからこそ、互いの声が必要だった。
東の札はさらに増え、西の人影も橋際に並び始めた。立ち止まっていれば、いつかどちらかの説明に呑まれる。
二十七の脈が巾着の中で揺れた。東へ寄れば一つずつ別の名で呼ばれ、西へ寄れば全員の拍が遠くなる。どちらにも進めと告げない。直前の広場の分岐と違い、名前たちにも答えがなかった。
おたまが橋の中央を歩いた。
東の木札は猫を呼ぶ文字を作れない。西の町も、小鈴の音だけは消せない。名も影も持たないおたまは、二つの町のどちらにも数えられず、道標の真下で立ち止まった。前脚で石の傷を掻く。
削られた三行目が現れた。
『町を選ぶな。町と町のあいだを歩け』
石橋の中央に、髪一本ほどの継ぎ目が走っていた。東の名札にも、西の空白にも属さない細い線。こよいが巾着を近づけると、二十七の脈が初めて揃った。
「道は二つじゃなかったんだ」
久遠が目録を閉じた。観測者に読まれる東の地図も、自分を失う西の空白も使わない。線は細く、三人が並ぶことはできない。あさひが先頭に立ち、こよいが続き、久遠が殿についた。おたまは継ぎ目の上を危なげなく進む。
東の木札が激しく鳴った。旅人を分類できず、空の札が次々に増える。西の住人たちは箒を止め、顔のない視線をこちらへ向けた。どちらの町も、間を歩く者を自分の側へ引き込もうとしていた。
こよいは自分の名を胸の中で一度だけ確かめた。声にはしない。巾着の温もりと、前を行くあさひの足音と、後ろの義眼の蒼い光。その三つが残っている限り、細い線から落ちない。
橋を渡り終えると、二つの町は背後で一枚に重なった。名札の音も、箒の音も止む。振り返れば、そこには入口のない壁だけがあった。
おたまの小鈴が鳴った。観測者には選択を読ませず、自分たちの名も捨てなかった。その答えを携えて、四つの足取りは経蔵へ続く砂の道へ入った。
名のある町にも、名のない町にも、帰る者はいる。四つの足取りは、そのどちらをも背に負って、砂の道を進んだ。




