第396話 祠の遠さ
祠が見えた。
砂丘の先、低い岩棚の上に、小さな屋根。柱が二本。注連縄もなく、鈴もなく、ただ石を組んだだけの簡素な造り。歩いて百歩もない距離に見えた。
こよいは歩いた。百歩を数えた。顔を上げた。
祠は同じ大きさのまま、同じ位置にあった。近づいていない。
「……おかしい」
もう百歩。砂を踏む靴底の感触は確かにある。足は動いている。前に進んでいる。けれど祠は遠いままだった。
「距離が伸びてる」
久遠が立ち止まった。義眼を光らせ、祠との間の空間を睨む。
「祠は動いてない。固定座標だ。間の空間が伸縮してる。一歩進めば一歩分、距離が増える。差し引きゼロだ。永遠にたどり着けない」
こよいは足を止めた。祠を見た。百歩の距離。最初と変わらない。
「……なんで」
「座標の歪みだ。祠の周囲だけ空間の密度が違う。近づこうとする力を、空間が吸収してる」
久遠は目録を開いた。指で何かを計算している。
「祠自体は五十三歩先にある。だが間の空間に六十七歩分の伸縮余地がある。差し引き十四歩分、常に遠い」
あさひが腕を組んだ。
「計算で辿り着けないなら、計算をやめろ」
「何を言ってる」
「そのまんまだ。測るから伸びるんだろ。なら測るな」
あさひは久遠を見ずに、祠を真っ直ぐ見据えた。目録も義眼も使わない。ただ見る。祠がそこにある。行く。それだけ。
あさひが歩き出した。
「無駄だと言ってるだろう」
「無駄かどうかは、着いてから決める」
あさひの歩幅は一定だった。速くも遅くもない。砂を踏む音がざ、ざ、と規則正しく響く。距離を測っていない。歩数を数えていない。ただ歩いている。
こよいは、あさひの背中を見た。
それから歩き出した。祠を見ない。あさひの背中だけを見る。距離のことを考えない。足が砂を踏む感触だけに意識を向けた。
おたまは最初から祠を見ていなかった。砂に鼻を近づけ、五十三歩の測定線を横切ってまっすぐ進む。数えなければ伸びない距離を、猫は十数歩で渡りきり、向こう側から小鈴を鳴らした。
ざ。ざ。ざ。
巾着が揺れる。神々の脈がゆっくりと安定していく。
久遠は舌打ちして目録を閉じた。
「……非科学的だ」
それでも歩いた。義眼の光を落とし、計測を止めた。目録を腰に挟み、両手を空にして、砂の上を歩いた。
三人の足音が重なった。ざ。ざ。ざ。
こよいはふと、空気の匂いが変わったことに気づいた。砂の匂いに、石の匂いが混じっている。冷たい石の匂い。長い年月、雨と風に晒された岩の匂い。
近い。
顔を上げた。
祠が、目の前にあった。
岩棚の縁に靴先が触れていた。柱が二本。石の屋根。手を伸ばせば届く距離に、祠が立っている。
「……着いた」
あさひが振り返った。汗もかいていない。何歩歩いたかも覚えていない。
「測るのをやめたら、着いた。南の方位は、そういう場所だ」
久遠は黙って義眼を光らせた。蒼光が祠の表面を走る。
「……空間の伸縮が止まってる。計測をやめた時点で、空間が元の密度に戻ったらしい」
「観測が空間を歪ませてた?」
「そうだ。観測者の原理と同じだ。見る者が、見られるものを変える」
久遠の声に、悔しさと納得が混じっていた。
「観測者が支配する空間では、観測そのものが罠になる。あいつらの土俵で測定を続ければ、永遠にたどり着けない」
こよいは祠の前に立った。石を組んだだけの簡素な造り。中には何もない。空洞だった。かつて何かが祀られていた場所。今は空。
けれど、石が温かかった。
柱に手を触れると、日向の温度ではない温もりが伝わった。この祠にかつて祀られていた名前の、最後の残り香。
「……ここに、名前があったんだね」
久遠が頷いた。
「あった。目録に痕跡がある。だが名前自体は消えている。祠だけが残った」
「祠は消されなかったの?」
「祠は名前じゃない。器だ。観測者は名前を消すが、器は消さない。消す理由がない」
あさひが祠の屋根を見上げた。
「器が残ってるなら、また入れられる」
「乱暴な言い方だが、間違ってない」
「乱暴で結構だ」
あさひは祠の脇に腰を下ろした。剣を膝に立てかけ、空を見上げた。
「疲れたろ。少し休め」
こよいは祠の前に座った。巾着を膝の上に置く。神々が穏やかに脈打っている。ここまでの不安定さが嘘のように、静かな拍動。
祠の空洞から風が吹いた。石の奥から出てくる風。冷たいが、不快ではない。長い時間をかけて石に蓄えられた空気が、ゆっくりとほどけていく。
「……祠が、迎えてくれたのかな」
久遠は目録を開き直した。祠の傍では文字がよく見える。空間が安定しているからだ。ここは歪みの外にある。観測者の座標書き換えが及ばない、小さな固定点。
「祠というのは、そういうものだ。測れない場所に建てるんじゃなく、測らなくていい場所に建てるものだ」
風が抜けた。砂が鳴った。
三人はしばらく、祠の傍で休んだ。測ることをやめた瞬間に、世界は正しい距離を返してくれた。こよいは膝の上の巾着に手を添えて、石の温もりに背を預けた。
おたまは温かな石へ背をつけ、測られる前からそこにいたもののように目を閉じた。
次の道は、ここから始まる。
祠の遠さは、近づくほどに意味を変えた。遠いのは距離ではなく、まだ呼ばれていない名前の数だった。




