第395話 木札のずれ
小さな祠の前に、木札が並んでいた。
六枚。細長い板に墨で名前が書かれ、祠の軒下に吊り下げられている。風に揺れて、かちかちと軽い音を立てていた。祠の屋根は苔に覆われ、柱の木目は雨風に晒されて灰色に褪せている。誰かがここを手入れしていた時代は、とうに過ぎていた。
こよいは近づいて、足を止めた。
「……ずれてる」
木札の位置がおかしい。一番左の札が右寄りに傾き、三番目と四番目の間隔が詰まりすぎている。五番目は紐が伸びて他より低く垂れ、六番目は半回転して裏を向いていた。
巾着が腰のあたりで微かに揺れた。神々が、木札の異変に気づいている。
「最初はきちんと並んでいたはずだ。等間隔で、正面を向いて」
久遠が祠の柱を確かめた。釘の位置は等間隔のまま。釘は動いていない。木札の側がずれている。
「座標の書き換えだ。木札が参照している名前の位置が変わった。名前が動いたから、札が引っ張られて傾いた」
こよいは一番左の札を読んだ。
『とよの』。
筆の跡が薄れているが、読める。三文字の名前。この札は右に傾いている。とよの、という名前がかつてあった場所から、右の方角へ動いたということか。
「名前が移動したのか、場所が移動したのか」
あさひが札を見上げて訊いた。
「場所の方だ。名前は動かない。名前は根に繋がってる。動いたのは座標で、札が示す方向と名前の実際の位置が合わなくなった」
久遠は目録を開いた。蒼光が頁を照らす。
「六枚のうち、三枚はまだ名前が存在している。残り三枚は、名前が消えた後の札だ。消えた名前を示す札は、方角を失って回転している」
六番目の裏返しの札。こよいはそれを指先で表に戻した。
『みずか』。
名前が書いてある。けれど墨の色が灰色に褪せている。名前が消えたことで、札の墨まで力を失っていた。
「触ったとき、何か感じたか」
久遠が訊いた。
「重かった」
「重い?」
「札の重さじゃなくて、名前の重さ。この『みずか』って名前が、まだ札の中に残ってる感じがした。消えたのに、札だけが覚えてる」
こよいは札から手を離した。指先に、かすかな痺れが残っている。消えた名前の重力が、まだ皮膚の下に沈んでいるような感覚だった。
あさひが三番目の札を見た。『あさの』。左に傾いている。
「こいつはまだ生きてる名前か」
「ああ。ただし札の示す方角と名前の位置が九十度近くずれてる。このままだと対応が完全に崩れる」
「崩れたら?」
「札が名前を見失う。別の名前を指し始めるか、どの名前も指さなくなる」
こよいは二番目の札に手を伸ばした。『なるみ』。六枚の中では最もずれが少ない。
指先が札に触れた。
温かかった。『みずか』の冷たい重さとは違う。根が生きている名前の体温が、木の繊維を通じて伝わってくる。指先から手首へ、微かな脈動が這い上がった。
「……この名前、まだ近くにいる」
巾着の中の神々が、その温度に応えるように脈打った。
「近いといっても、根の距離だ。根で繋がっていれば、地上で百里離れていても近い。逆に根が切れていれば、隣にいても遠い」
こよいは札をそっと押した。
右に傾いていた『なるみ』の札が、少しだけ正面に戻った。指先に抵抗があった。座標のずれが、元に戻ることに抵抗している。けれど、押した分だけ札は動いた。
「……戻せるんだ」
「力ずくで戻しても座標が直らなければ、手を離した瞬間にまたずれる」
「分かってる。でも、今だけでも」
こよいは札を押さえたまま目を閉じた。掌の中で、木の温もりが少し強くなった。『なるみ』という名前が、正しい方角を向いた一瞬だけ、根を通じて何かを伝えてきた。
手を離した。
札はゆっくりと右に傾き始めた。けれど、さっきよりも傾きが小さい。わずかだが、戻った分の一部が残っている。
「……少しだけ、覚えてくれた」
あさひが祠の柱に背を預けた。
「全部は直せない。でも、触れたことは無駄じゃない。そういうことだろ」
風が止んだ一瞬、木札の音も消えた。静寂の中で、名前たちの微かな気配だけが祠の軒下を満たしている。
こよいは頷いた。
六枚の木札が、かちかちと鳴っている。乾いた木の音が、祠の屋根の下で小さく反響した。風が吹くたびに名前の方角がずれていく。けれどこよいが触れた『なるみ』の札だけは、他より少しだけ正面を向いていた。
おたまが祠の縁へ跳び乗ると、裏返っていた六枚目の札が小鈴に触れて表を向いた。そこには墨の名がなく、爪で幾度も引っ掻いた跡だけがある。久遠の義眼にも読めない。
「消えたから空なのか、最初から書かれなかったのか」
答えは出なかった。こよいは空白を埋めず、札の傷と向きを目録へ写す。分からないものを都合のよい名で呼ばないことも、失われた名を守るやり方だった。おたまが札から離れると、それはまた半分だけ裏へ戻った。
三人は祠を離れた。草を踏む音に混じって、背後で木札の音が小さくなっていく。こよいの右手には、まだ木の温もりが残っている。『なるみ』の名の温度。生きている名前の、静かな体温。
木札の音が、やがて風の音に溶けた。それでも、握った手のなかの三文字だけは、確かにこよいと一緒に歩いている。名前は、覚えている者がいるかぎり消えない。旅の始まりに一つの名前も持たなかったこよいの手は、今、こんなにも温かかった。
生きている名前の、静かな体温。それを消させはしないと、こよいは指に力を込めた。




