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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第13章 南の方位

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第394話 風の結び

挿絵(By みてみん)


列車を降りると、色がなかった。


 空も壁も地面も、同じ灰白色に塗り潰されている。建物の輪郭(りんかく)が滲(にじ)み、境界線(きょうかいせん)が溶けている。水彩画が雨に流されたような、掴(つか)みどころのない空間だった。壁があるはずの場所に手を伸ばしても、触れる前に指が灰白色の中に呑(の)まれてしまいそうだった。足元の地面も同じ色で、自分がどこに立っているのか、視覚だけでは判断がつかない。


 低い鐘(かね)の音だけが、一定の間隔で空白の中に落ちてくる。


 その音は耳から入って胸の奥まで沈み込み、心臓の鼓動(こどう)と重なった。鐘(かね)の音が鳴るたびに、胸の内側がきつく締まる。巾着(きんちゃく)の中の名前たちが押し黙っている。こよいの体温にしがみつくようにして、震えていた。二十五の名前が一つの塊になって巾着(きんちゃく)の底に沈んでいる。一柱(ひとはしら)ずつの脈動が区別できない。全員が同じ恐怖を共有して、一つの震えになっていた。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)の頁(ページ)を押さえた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が灰白色の空間を掠(かす)める。蒼光(そうこう)は灰白色に負けていた。普段なら闇を切り裂く鋭い光が、ここでは数歩先で吸い込まれて消える。照らしているのに見えない。光が空間に呑(の)まれている。


 「情報の墓所だ。理(ことわり)が不適合(ふてきごう)と判定した記録(きろく)を、ここで間引いた」


 低い声だった。怒りが底に沈んでいる。義眼(ぎがん)を細めたその表情には、かつて自分も不適合として排斥(はいせき)された記憶がちらついていた。久遠(くおん)は理(ことわり)に身体を壊された。その理(ことわり)が「不適合」と呼ぶものの墓を、今踏んでいる。


 地面に、何かが散らばっていた。灰白色の中に、わずかに色の違う破片(はへん)が点々と落ちている。拾い上げると、紙だった。文字の痕跡(こんせき)がかすかに残っている。筆圧の跡だけが繊維(せんい)に食い込み、墨(すみ)の色だけが抜かれている。名前を書いた紙。名前だけを消された紙。器(うつわ)は残して中身だけを間引く。それがこの墓所のやり方だった。


 「間引き? だったら、ここにいる名前たちは——」


 こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を握った。


 「……もう、救えないの」


 久遠(くおん)が首を振った。


 「呼ぶな」


 短く、鋭い声だった。


 「風の結びを呼んだ瞬間、お前の中の本当の名前も一緒に滑り落ちる。ここは名前を声にしていい場所じゃない」


 こよいは口を閉じた。


 呼びたかった。ここに眠る名前を、一つ残らず声に出して呼んであげたかった。けれど久遠(くおん)の警告が、胸の底に重く沈む。鐘(かね)がまた鳴った。その音に合わせて、灰白色の空間が一瞬だけ揺れた。揺れの中に、消えかけた名前たちの輪郭(りんかく)が浮かんだ。すぐに灰白色に呑(の)まれて消えた。


 あさひが先頭に立って歩き出した。振り返らない。その背中だけが、この灰白色の空間で唯一、輪郭を保っている。灰白色が周囲のすべてを溶かそうとしているのに、あさひの輪郭(りんかく)だけは鮮明だった。大剣の柄(つか)、肩幅、足の運び。一つ一つが灰白色を拒んでいる。


 三人は無言のまま、墓所の奥へ踏み入った。おたまの輪郭まで灰色へ薄れたが、小鈴だけは鈍い金色を失わず、先を行く位置を知らせている。こよいは鈴を追い、散らばった紙片(しへん)を踏まない場所へ足を置いた。名前を失った紙が、それでも紙として残っている。


 風が結(むす)ばれていた。


 目の前で、灰白色の空気が一点に集まっている。風が風に巻きつき、紐のような形を作っていた。目に見える。空気そのものが絡み合い、結び目になっている。結び目の大きさは拳ほどで、灰白色の中でわずかに色が濃い。空気が圧縮された場所だけ、灰白色が灰色に近づいていた。


 久遠(くおん)が足を止めた。


 「風の結びだ。理(ことわり)が空気の流れを固定(こてい)している。この先に、封じられたものがある」


 義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が結び目に焦点を合わせた。蒼光(そうこう)が結び目に触れた瞬間、結びの表面が細かく震えた。読まれることを嫌がるように。


 三人が近づくにつれて、結び目がほどけ始めた。端(はし)から一本ずつ、風の糸がほつれていく。ほつれた風が頬を撫でた。冷たくはない。けれど温かくもない。この墓所と同じ無温度の風。ほどけた糸が灰白色の空間に溶けていき、結び目が小さくなる。


 結びが解(と)けた瞬間、空気が完全に静止した。


 風がない。音もない。灰白色の世界が、息を止めた。鐘(かね)の音すら消えた。これまで一定の間隔で鳴っていた低い音が途切れ、空間から最後の時間の指標が失われた。


 その静寂の底で、こよいは一つの名前を聞いた。


 はっきりと。声として。誰かの口から発せられた、確かな音として。鐘(かね)の音が消えたからこそ聞こえた。灰白色の静寂の下に、名前の声が埋もれていた。


 巾着(きんちゃく)が震えた。中の名前たちが、その声に反応している。塊になっていた二十五の名前が、一瞬だけほどけて、声のした方角を向いた。


 それから風が戻った。結び目のない、ただの風が。鐘(かね)の音も再び鳴り始めた。


 こよいは唇を噛(か)んだ。名前を復唱(ふくしょう)したかった。声にして、返してあげたかった。けれど久遠(くおん)の警告が、まだ耳の奥に残っている。


 声にはしなかった。


 おたまが、名の聞こえた場所で一度だけ前脚を止めた。鈴は鳴らない。沈黙を守ったまま振り返る。その目に促され、こよいは聞いた音の高さ、長さ、最後の息まで胸の中で繰り返した。呼ばないことと忘れることは、同じではない。


 代わりに、聞こえた名前の形を胸の奥に刻んだ。音の輪郭(りんかく)を、心臓の隣に置いた。忘れない。声には出さないが、忘れない。


 風は二度と結ばれなかった。

 ほどけた風の中で、名前がひとつ、行き場を失って漂(ただよ)っていた。こよいはその気配を、忘れないように胸へ刻んだ。

 結び直せない風もある。ほどけたまま漂う名前を、すべて拾えるわけではない。それでも、見えた気配は忘れない。忘れないことが、こよいにできる唯一の弔(とむら)いだった。

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