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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第13章 南の方位

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第393話 砂の帳面

挿絵(By みてみん)


列車(れっしゃ)が露草苑(つゆくさえん)を離れた後、久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。閉じたのではない。閉じざるを得なかった。


 頁(ページ)が白くなっていた。


 昨日読んだ頁(ページ)。一昨日読んだ頁(ページ)。どちらも文字が消えている。紙は残っている。質感も厚みも変わらない。けれど文字だけが、最初から印刷されなかったかのように跡形もなかった。


 「漂白(ひょうはく)が、過去に遡(さかのぼ)り始めた」


 久遠(くおん)の声が低い。いつもの冷淡さではなく、喉(のど)の奥を絞るような響きがあった。蒼光(そうこう)が頁(ページ)の表面を走るが、照らす対象がない。光が紙に吸い込まれて、何も返さない。


 「読んだ記録(きろく)は覚えている。だが目録(もくろく)からは消えた。書き換えじゃない。歴史の事前消去(しょうきょ)だ。名前が存在した事実そのものを、理(ことわり)の根元から抜き取ろうとしている」


 こよいが白い頁(ページ)に触れた。指先に何も感じない。温度も、振動も。紙の繊維(せんい)の肌触りだけが、ただの物質として指の腹に伝わる。昨日まで金色の線が走り名前の根が脈打っていた頁(ページ)が、ただの紙に戻っている。


 生きていたものが死んだのではない。最初から生きていなかったことにされている。


 「でも——」


 こよいは、名前たちを巾着(きんちゃく)へ移した後の写本(しゃほん)を取り出した。露野(つゆの)への地図の線と、宵波浜(よいなみはま)で名前が根を張っていた金色の痕だけが残る一枚。


 写本(しゃほん)の表面に触れると、指先にかすかな温もりが返ってくる。名前そのものはもう巾着にいる。それでも金色の根跡が紙の繊維(せんい)の奥で微かに光り、手の温度に応えていた。目録(もくろく)の白い頁(ページ)との差が、触れただけで分かる。


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で写本(しゃほん)を照らした。金色の筋が紙の中に枝分かれしているのが浮かび上がる。根のように。血管のように。


 「名前の根が紙の繊維(せんい)に食い込んでいるからだ。漂白(ひょうはく)は名前の根を断ち切れていない」


 目録(もくろく)が白くなっても、写本(しゃほん)が生きている。漂白(ひょうはく)に限界がある証拠だった。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を開き直した。白い頁(ページ)をめくっていく。一枚。二枚。三枚。どれも白い。四枚目も。五枚目も。頁(ページ)をめくる指先が、わずかに震えている。白い頁(ページ)が繰られるたびに、車内の空気が薄くなるような錯覚があった。こよいの胸の奥が冷えていく。


 途中で手が止まった。


 「ここだ」


 白い頁(ページ)の中に、一本の金色の線が走っていた。


 名前の根だ。漂白(ひょうはく)が文字を消した後から、根が通り道を作っている。文字を取り戻しているのではない。文字とは別の方法で、紙に何かを刻んでいる。


 根が通った痕跡(こんせき)が、文字の形をとっていた。


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で読み取った。蒼光(そうこう)が金色の線に焦点を合わせると、線が微かに震えて応えた。読まれることを待っていたように。


 「消去(しょうきょ)分類の四柱(よんはしら)が、観測者(かんそくしゃ)の本拠(ほんきょ)の中で名前の根を張り始めている。その根が目録(もくろく)にまで届いた。——本拠(ほんきょ)の座標(ざひょう)だ」


 あさひが腕を組み直した。背もたれに体重を預けたまま、けれど目だけは鋭く金色の線を見ている。


 「消されかけながら、道案内してるのか。あいつら」


 久遠(くおん)が口の端を歪(ゆが)めた。自嘲(じちょう)ではなく、感嘆(かんたん)に近い表情だった。


 「高共鳴体(こうきょうめいたい)の面目躍如(めんもくやくじょ)だな。消去(しょうきょ)されてなお、仲間に位置を伝えている」


 こよいは目録(もくろく)の金色の線に指を添えた。温かかった。写本(しゃほん)の温もりとは違う。もっと深い場所から来ている熱。何百里もの距離を越えて、紙の繊維(せんい)の中に届いた四柱(よんはしら)の体温。


 まだ生きている証拠だった。


 おたまが白い頁(ページ)を踏みそうになり、直前で前脚を止めた。何もない紙を避け、金色の線だけを跨(また)ぐ。久遠(くおん)は猫の足運びと線の向きを重ね、これは本拠そのものではなく、経蔵へ続く根の入口を示す座標だと読み替えた。


 金色の線がもう一度脈打った。強く、短く。こよいの指先にはっきりとした振動(しんどう)が伝わる。巾着(きんちゃく)の中の名前たちが一斉に応え、車内の空気が一瞬だけ温まった。


 それから光が薄れていった。線が白い紙に吸い込まれていく。消えたのではなく、潜(もぐ)ったのだ。紙の奥へ。漂白(ひょうはく)の手が届かない場所へ。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。今度は自分の意志で。


 「入口の座標(ざひょう)は覚えた。経蔵のどこへ繋がるかは、着いて確かめる」


 こよいが顔を上げた。


 「消えちゃったのに」


 「頭の中にある。目録(もくろく)から消えても、俺の記憶(きおく)からは消えない。漂白(ひょうはく)は紙を白くできる。だが義眼(ぎがん)が焼き付けたものは、紙の上にはない」


 久遠(くおん)がこめかみを指で叩いた。義眼(ぎがん)の縁(ふち)をかすめた指の腹が、一瞬だけ蒼く染まった。


 座標(ざひょう)は今、理(ことわり)の手が届かない場所にある。久遠(くおん)の頭蓋(ずがい)の奥、義眼(ぎがん)の蒼い記憶(きおく)の底に。


 窓の外を砂が流れていく。白い頁(ページ)を閉じた目録(もくろく)が膝(ひざ)の上で揺れている。列車の振動が、空になった頁(ページ)を微かに震わせていた。かつて文字が刻まれていた紙は、今はただの紙だ。けれどその紙を支えている久遠(くおん)の手は、まだ何かを握り締めている。記録媒体を失っても、記憶と根は残る。それが今、証明された。

 書くものを失った帳面(ちょうめん)は、それでも、これから起きることを待つ器(うつわ)に変わっていた。空白は、終わりではなかった。

 こよいは膝(ひざ)の上の帳面(ちょうめん)に手を置いた。まだ書けない。けれど、いつか書ける。空白の頁(ページ)は、その「いつか」を静かに待っていた。

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