第390話 町の揺らぎ
町が見えた。
砂丘の向こう、低い空の下に屋根が三つ並んでいる。煙突から白い煙が上がり、塀の隙間に洗い物が干されていた。人が暮らしている町の匂いがする。
こよいは目を凝らした。
町が消えた。
瞬きひとつ。それだけの間に、砂丘の向こうには何もなくなった。乾いた砂の平原が広がっているだけ。屋根も煙も塀もない。
もう一度、目を開く。
町が戻った。今度は屋根が五つに増えている。さっきはなかった井戸の囲いが通りの端に見え、その脇に木箱が積まれていた。
「揺らいでる」
久遠が義眼を光らせた。蒼い光が砂丘の稜線越しに町の輪郭をなぞる。
「座標が二重になっている。在る町と無い町が、同じ場所で重なってる」
目を開けているときと閉じるときで、町が違う。開けていれば屋根五つ。閉じた瞬間に像が途切れ、再び開けると屋根三つに戻る。二つの町がまぶたの裏表で入れ替わっている。
「どっちが本物なの」
「どっちも本物だ」
久遠が即答した。義眼の蒼光が町の輪郭に合わせて明滅し、二つの像を交互に捉えている。
「町の名前が半分だけ残ってる。上の二文字に対応する町と、消えた下の二文字の残像が交互に現れてるんだ。漂白が途中で止まっている。消しかけの名前が町を二つに割った」
三人は砂丘を越えた。砂を踏む足音が、一歩ごとに質を変えた。乾いた砂の音から、踏み固められた土の音へ。町が近い。
近づくほど、揺らぎが肌に触れた。風が吹くたびに町の姿が入れ替わる。木造の家並みが見えたと思えば、次の瞬間には石壁の建物に変わる。通りの幅が縮んだり広がったりする。
木の町と石の町。同じ座標に、二つの町が息をしている。
「匂いが違う」
こよいが足を止めた。干し草の匂い。石灰の匂い。風向きではなく、町の切り替わりに合わせて交互に鼻をつく。どちらの町にも、誰かが住んでいた痕がある。
巾着の中の神々が、揺らぎに合わせて明滅した。温かさと冷たさが交互に手のひらに触れる。
通りの入口に立った。木の町のとき、奥に影が見えた。人の形。直立している。動かない。目を凝らした瞬間、石の町に替わった。通りは空だった。石畳の上を風だけが走っていく。
「今、人がいた」
「人じゃない」
久遠が首を振った。
「名前の残像だ。消されかけた名が、まだ人の形を保ってる」
木の町に戻る。影がまだ立っていた。通りの奥、井戸の脇にひとつ。軒先にひとつ。どちらも動かない。町の揺らぎと一緒に明滅している。
おたまが通りへ一歩入ると、木の町では乾いた土に小さな足跡がつき、石の町では何も残らなかった。猫自身は消えず、町だけが足跡を受け取ったり拒んだりする。おたまは二つの町の境を往復し、同じ場所へ重ならない二列の足跡を刻んだ。
「どちらかが偽物なら、こいつの足跡も片方にしか残らないはずだ」
久遠は二列を目録へ写した。木の町にも石の町にも、人が暮らした時間がある。消された下二文字を推測で埋めれば、片方をまた殺すことになる。経蔵の記録が必要な理由が、地面に並ぶ足跡として残った。
石の町に切り替わった。影は消え、代わりに地面に薄い染みが見えた。足跡のような形。人が立っていた場所の記憶が、石畳に染みついている。
久遠が目録を開いた。木の町のとき文字が浮かぶ。石の町では白紙に戻る。揺らぎに合わせて目録の中身までが明滅していた。
「上半分だけ読める。『さ』と『き』。四文字の名の上二文字だ。残った二文字が木の町を支え、消えた二文字の残響が石の町を映している。どちらも完全じゃない。だから揺らぐ」
こよいは通りの真ん中で足を止めた。
木の町。頭上を見上げると、軒から干し柿が吊るされていた。糸が切れかけて揺れている。誰かが干して、誰かが食べるはずだった柿。
石の町に替わった。干し柿は消え、軒から石灰の飾りが垂れていた。花のような彫り模様がある。まったく違う暮らしの跡。
ひとつの場所に、ふたつの暮らしが重なっている。空気の温度まで切り替わる。木の町は温かく、石の町は冷たい。こよいの頬が、交互に異なる季節に撫でられていた。
「……かわいそうだ」
こよいが呟いた。
「どっちも本当の町だったのに。名前が半分消えたせいで、どっちにも完全にはなれなくなってる」
久遠は目録を閉じた。
「行くぞ。名前が完全に消えるか完全に戻るか、どちらかでしかこの町は安定しない」
あさひが振り返った。通りの奥で、影がまだ立っている。木の町のとき、その影がわずかに首を傾げた。
「……待ってんだな。どっちの自分が本物か」
三人は町を出た。
砂丘の上から振り返ると、町はまだ揺らいでいた。屋根の数が変わり、壁の材質が変わり、煙が出たり消えたりしている。半分の名前に支えられた、半分の町。
「『さき』のあとに続く二文字が見つかれば、あの町はひとつに戻れる」
久遠が前を向いたまま答えた。
「経蔵に近づけば、消された名の記録がある。そこで探す」
町の揺らぎが、背中の遠くで続いていた。木と石。煙と静寂。二つの町が、名前の帰りを待っている。こよいは巾着を握り直した。布の中の神々が、遠ざかる町に向かって微かに脈打っていた。
おたまの前脚には、土の色と石灰の白が片方ずつ付いていた。こよいは拭わなかった。経蔵で下二文字を見つけるまで、二つとも本物だった証を連れていく。
二つの色は、経蔵へ着くまで、猫の足に残り続けるだろう。本物であった、二つの証として。




