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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第13章 南の方位

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第391話 座標の溶解

挿絵(By みてみん)


揺らぐ町を離れた三人の前に、また霧列車(きりれっしゃ)が線路ごと現れていた。乗り込むと、車内の空気が歪(ゆが)んでいた。


 行灯(あんどん)の火がある瞬間は蒼く、次の瞬間には赤銅(しゃくどう)色に変わる。光の色そのものが座標(ざひょう)の書き換えに翻弄されていた。窓枠(まどわく)の金属が軋(きし)む。座席の木目が揺らぐ。天井板の継ぎ目(つぎめ)から細かい塵(ちり)が落ちてきた。列車(れっしゃ)そのものが、情報の修正圧力に耐えきれずに悲鳴を上げている。


 窓の外では、景色が刻一刻と姿を変えていた。町であったものが平原になり、山であったものが海に沈み、再び何もない虚空(こくう)に還る。一つの地形が崩れるたびに、窓硝子(まどがらす)の表面に細い罅(ひび)のような線が走り、すぐに消える。硝子(ガラス)の罅(ひび)ではなく、座標(ざひょう)の裂け目だった。景色が入れ替わるたびに、列車(れっしゃ)の床板から微かな衝撃(しょうげき)が伝わり、こよいの膝(ひざ)まで震えが上った。


 世界が書き換えられている。


 久遠(くおん)は無言で目録(もくろく)を読んでいた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が鋭く明滅し、頁(ページ)に浮かぶ座標(ざひょう)の数列(すうれつ)を高速で追いかけている。指先が頁(ページ)の縁(ふち)を強く掴(つか)み、紙が軋(きし)む音がした。額(ひたい)に髪が張りつき、汗が義眼(ぎがん)の縁(ふち)を伝っていた。


 「座標(ざひょう)が目の前で書き換えられている。圧力は経蔵(きょうぞう)の方角から来ている。観測者(かんそくしゃ)が目録(もくろく)の本体を使って、この情報を強制的に無効化しようとしているらしい」


 額に浮かんだ汗を拭(ぬぐ)うことすら忘れ、消えゆく情報の断片(だんぺん)を一つでも多く記憶に焼き付けようとしていた。観測者(かんそくしゃ)の修正速度は、当初の想定より遥かに速い。目録(もくろく)の頁(ページ)の端から、記録(きろく)が砂のように崩れ落ちていく。読み取る速度と消える速度が、ほぼ同じになっていた。紙の繊維(せんい)が白く変色し、文字があった場所が平滑(へいかつ)に塗り直されていく。


 「書き換え? じゃあ、ぼくたちが今向かっている場所は、本当にあるの?」


 こよいは窓硝子(まどがらす)から手を離した。指先に硝子(ガラス)の冷たさが残っている。外の景色が万華鏡(まんげきょう)のように変転し、どれが真実でどれが虚構(きょこう)なのか判別がつかない。森が現れて消え、町が沈んで浮かび、雪原が一瞬だけ白く広がってまた砂に呑(の)まれた。


 巾着(きんちゃく)を両手で包み込んだ。中の名前たちが不規則に脈打っている。二十五の脈動(みゃくどう)が互いにずれ、重なり、また離れる。座標(ざひょう)が書き換えられるたびに、名前たちの拍動(はくどう)が乱れた。一柱(ひとはしら)の脈が速まれば、隣の名前の脈が遅くなる。調和が崩れかけていた。その温もりだけが、今この瞬間に自分が確かに存在しているという唯一の証(あかし)だった。


 あさひは剣の柄(つか)に手を置いたまま、前方の闇を見据えていた。揺れる車内で微動だにしない。座席の背もたれが軋(きし)み、行灯(あんどん)の火が赤く染まっても、あさひの呼吸だけは変わらなかった。吸って、吐いて、その間隔が一定のまま崩れない。列車(れっしゃ)の揺れにすら同調せず、自分のリズムだけを保ち続けている。


 「急がない」


 低く、静かな声だった。


 「嵐の中で動くと足を取られる。向こうが座標(ざひょう)を好き勝手に書き換えている間は、こちらが読み取れる情報も歪(ゆが)む。嵐が止む瞬間がある。書き換えには間隔(かんかく)がある。その隙間に、世界の本当の姿が見える」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)の上から顔を上げた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が一瞬だけ揺れた。あさひの言葉を咀嚼(そしゃく)している。分析者の目が、戦士の直感を量っていた。


 「……間隔(かんかく)を読めと言うのか」


 「お前の目なら読める」


 あさひの声に迷いはなかった。視線は前方から動かない。言い切る声の太さが、車内の軋(きし)みをかき消した。


 こよいはその横顔を見つめた。震えていた指先から、少しずつ力が抜けていく。あさひの声が車内に残り、振動の中に一本の芯を通していた。久遠(くおん)は黙って目録(もくろく)に視線を戻した。蒼光(そうこう)の明滅が、先ほどより規則的になっている。間隔(かんかく)を測り始めたのだ。義眼(ぎがん)の光が消えている瞬間を数え、点いている瞬間を数え、その比率から書き換えの周期を割り出そうとしている。


 窓の外では依然として座標(ざひょう)の書き換えが続いている。向こうがこちらの情報を潰しに来ている。だが列車(れっしゃ)はその混沌(こんとん)の只中を貫いて、前へ進み続けていた。車輪が軋(きし)み、蒸気が唸(うな)り、それでも止まらない。


 座席の下で、おたまは四肢を踏ん張っていた。景色が海へ変わった瞬間にも、砂へ戻った瞬間にも、猫のない影は増えも減りもしない。こよいはその背を足首に感じ、書き換えられていないものがもう一つあると知った。


 巾着(きんちゃく)の中で、二十五の名前が少しずつ拍動を揃え始めた。こよいの掌(てのひら)の温度に引き寄せられるように。乱れていた脈が、一つずつ隣の名前と同調し、やがて二十五の鼓動(こどう)が一つの波になった。こよいの心臓の拍動と重なる。座標(ざひょう)が書き換えられても、この波だけは揺るがなかった。


 行灯(あんどん)の火が、一瞬だけ金色に光った。巾着(きんちゃく)の中の名前たちの脈動が、光に触れたのだ。すぐに蒼と赤銅(しゃくどう)の明滅に戻ったが、金色の残像がこよいの網膜(もうまく)に焼きついている。名前の色だった。書き換えの嵐の中で、名前だけが自分の色を保っていた。


 おたまの小鈴にも同じ金色が宿った。次に景色が入れ替わるまでの七拍だけ、列車の内と外が一つの砂原として重なる。久遠(くおん)はその七拍を目録の余白へ刻み、初めて書き換えの周期を掴んだ。

 七拍が過ぎると、内と外はまた別々の世界へ戻った。目録(もくろく)に刻まれた座標だけが、重なりの証に残っていた。

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