第391話 座標の溶解
揺らぐ町を離れた三人の前に、また霧列車が線路ごと現れていた。乗り込むと、車内の空気が歪んでいた。
行灯の火がある瞬間は蒼く、次の瞬間には赤銅色に変わる。光の色そのものが座標の書き換えに翻弄されていた。窓枠の金属が軋む。座席の木目が揺らぐ。天井板の継ぎ目から細かい塵が落ちてきた。列車そのものが、情報の修正圧力に耐えきれずに悲鳴を上げている。
窓の外では、景色が刻一刻と姿を変えていた。町であったものが平原になり、山であったものが海に沈み、再び何もない虚空に還る。一つの地形が崩れるたびに、窓硝子の表面に細い罅のような線が走り、すぐに消える。硝子の罅ではなく、座標の裂け目だった。景色が入れ替わるたびに、列車の床板から微かな衝撃が伝わり、こよいの膝まで震えが上った。
世界が書き換えられている。
久遠は無言で目録を読んでいた。義眼の蒼光が鋭く明滅し、頁に浮かぶ座標の数列を高速で追いかけている。指先が頁の縁を強く掴み、紙が軋む音がした。額に髪が張りつき、汗が義眼の縁を伝っていた。
「座標が目の前で書き換えられている。圧力は経蔵の方角から来ている。観測者が目録の本体を使って、この情報を強制的に無効化しようとしているらしい」
額に浮かんだ汗を拭うことすら忘れ、消えゆく情報の断片を一つでも多く記憶に焼き付けようとしていた。観測者の修正速度は、当初の想定より遥かに速い。目録の頁の端から、記録が砂のように崩れ落ちていく。読み取る速度と消える速度が、ほぼ同じになっていた。紙の繊維が白く変色し、文字があった場所が平滑に塗り直されていく。
「書き換え? じゃあ、ぼくたちが今向かっている場所は、本当にあるの?」
こよいは窓硝子から手を離した。指先に硝子の冷たさが残っている。外の景色が万華鏡のように変転し、どれが真実でどれが虚構なのか判別がつかない。森が現れて消え、町が沈んで浮かび、雪原が一瞬だけ白く広がってまた砂に呑まれた。
巾着を両手で包み込んだ。中の名前たちが不規則に脈打っている。二十五の脈動が互いにずれ、重なり、また離れる。座標が書き換えられるたびに、名前たちの拍動が乱れた。一柱の脈が速まれば、隣の名前の脈が遅くなる。調和が崩れかけていた。その温もりだけが、今この瞬間に自分が確かに存在しているという唯一の証だった。
あさひは剣の柄に手を置いたまま、前方の闇を見据えていた。揺れる車内で微動だにしない。座席の背もたれが軋み、行灯の火が赤く染まっても、あさひの呼吸だけは変わらなかった。吸って、吐いて、その間隔が一定のまま崩れない。列車の揺れにすら同調せず、自分のリズムだけを保ち続けている。
「急がない」
低く、静かな声だった。
「嵐の中で動くと足を取られる。向こうが座標を好き勝手に書き換えている間は、こちらが読み取れる情報も歪む。嵐が止む瞬間がある。書き換えには間隔がある。その隙間に、世界の本当の姿が見える」
久遠が目録の上から顔を上げた。義眼の蒼光が一瞬だけ揺れた。あさひの言葉を咀嚼している。分析者の目が、戦士の直感を量っていた。
「……間隔を読めと言うのか」
「お前の目なら読める」
あさひの声に迷いはなかった。視線は前方から動かない。言い切る声の太さが、車内の軋みをかき消した。
こよいはその横顔を見つめた。震えていた指先から、少しずつ力が抜けていく。あさひの声が車内に残り、振動の中に一本の芯を通していた。久遠は黙って目録に視線を戻した。蒼光の明滅が、先ほどより規則的になっている。間隔を測り始めたのだ。義眼の光が消えている瞬間を数え、点いている瞬間を数え、その比率から書き換えの周期を割り出そうとしている。
窓の外では依然として座標の書き換えが続いている。向こうがこちらの情報を潰しに来ている。だが列車はその混沌の只中を貫いて、前へ進み続けていた。車輪が軋み、蒸気が唸り、それでも止まらない。
座席の下で、おたまは四肢を踏ん張っていた。景色が海へ変わった瞬間にも、砂へ戻った瞬間にも、猫のない影は増えも減りもしない。こよいはその背を足首に感じ、書き換えられていないものがもう一つあると知った。
巾着の中で、二十五の名前が少しずつ拍動を揃え始めた。こよいの掌の温度に引き寄せられるように。乱れていた脈が、一つずつ隣の名前と同調し、やがて二十五の鼓動が一つの波になった。こよいの心臓の拍動と重なる。座標が書き換えられても、この波だけは揺るがなかった。
行灯の火が、一瞬だけ金色に光った。巾着の中の名前たちの脈動が、光に触れたのだ。すぐに蒼と赤銅の明滅に戻ったが、金色の残像がこよいの網膜に焼きついている。名前の色だった。書き換えの嵐の中で、名前だけが自分の色を保っていた。
おたまの小鈴にも同じ金色が宿った。次に景色が入れ替わるまでの七拍だけ、列車の内と外が一つの砂原として重なる。久遠はその七拍を目録の余白へ刻み、初めて書き換えの周期を掴んだ。
七拍が過ぎると、内と外はまた別々の世界へ戻った。目録に刻まれた座標だけが、重なりの証に残っていた。




