第389話 乾いた音
最初は、遠くで枝が折れるような、乾いた音だった。
ホームのない停車地。砂の地面に枕木だけが並ぶ場所で、三人は列車を降りて周囲を見回していた。枕木の木は乾ききって白く変色し、踏むと粉のように崩れた。レールは錆に覆われ、赤い表面が砂粒に削られて鋸の歯のようになっている。長い間、列車が通っていなかった場所だった。
ぱきり。
空気の乾いた音が、足元から響いた。
おたまが跳び退いた。直前まで前脚を置いていた場所を亀裂が横切り、小鈴が鋭く鳴る。猫の足跡だけは裂け目の両側に残り、同じ地面だったものが今、別々の座標へ引かれ始めたことを示していた。
こよいが足を引いた。靴の下で、砂の表面に細い筋が走っている。亀裂。幅は髪の毛ほどだが、まっすぐに伸びて、三歩先で枝分かれしていた。枝分かれの形が、地下に張った根の分岐に似ている。
「動くな」
久遠が片手を上げた。義眼が蒼く光り、地面を透かすように見下ろしている。蒼光が砂を貫き、地下の構造を照らし出した。光の色が途中で変わった。砂の層を過ぎると金色の筋が見え始め、地下三尺ほどの深さに根脈が広がっている。
「根の道と同じ形だ」
こよいは息を詰めた。地下に張り巡らされた名前の根のつながりと同じ形で、地面が割れている。
「地下の根が繋がったまま、地表の座標だけが動いた。根が引っ張られて、地面が裂けている」
久遠は膝をつき、亀裂に指を近づけた。触れない。指先を一寸手前で止め、蒼い光を当てる。光が亀裂の壁面を照らし、石と砂の断面が蒼く浮かび上がった。
「根はまだ生きてる。ただし限界だ。座標がこれ以上ずれたら、根そのものが千切れる」
ぱきり。また音がした。
今度は近い。こよいの右足の横、二十歩ほど先の地面に新しい亀裂が走った。砂が崩れ、指の太さほどの隙間が開く。砂粒が隙間の縁から滑り落ち、闇の底に消えていった。音はしなかった。
あさひが剣の柄に手をやった。反射だった。斬れないと分かっていても、身体が先に動く。
「斬れるもんじゃないな」
「当たり前だ」
「分かってる。独り言だ」
あさひは手を柄から離し、代わりに地面を踏みしめた。靴底で砂の硬さを確かめる。崩れる気配はない。体重を片足にかけ、もう片足を浮かせてみる。地面は耐えた。
「持ってる。ぎりぎりだが、根が地面を支えてやがる」
こよいは亀裂のそばにしゃがんだ。隙間の底は暗い。けれど目を凝らすと、淡い金色の筋が光っている。根だ。切れかけた根の断面から、金色の樹液のようなものが滲んでいた。樹液は空気に触れると光を放ち、すぐに褐色に変わって固まった。傷口が塞がろうとしている。
「……泣いてるみたい」
「泣いてるんじゃない。出血だ。根が裂けた部分から名前の成分が漏れてる」
久遠が厳しい声で言った。目録を開いて頁を探り、指が止まった。義眼の蒼光が一点に集中し、頁の上の文字が明滅している。
「この根の先にあった名前が、浮いてくる」
亀裂の底が光った。
金色の筋が太くなり、隙間の中から何かがせり上がってくる。文字だ。ひらがなの形をした光の粒が、砂の間から滲み出して地表に浮かび上がろうとしている。粒の輪郭が揺れ、砂の圧力に押し返されながら、必死に上を目指していた。
二文字。
かすかに読める。けれど光が弱い。浮き上がりかけて震えている。根から押し出された名の断片が、地上に出ようとして力尽きかけていた。光が明滅し、一文字目が形を保ったまま、二文字目の輪郭が崩れかけている。
こよいは手を伸ばした。
「触るな」
久遠が鋭く止めた。声に焦りがあった。
「今触れたら、お前の体温で座標に固定される。この座標はずれてる。ずれた座標に固定されたら、名が歪む」
こよいは指を引いた。手を握り、膝の上に置いた。伸ばした指先に、亀裂から立ち上る微かな温もりが残っている。
亀裂の中の二文字がゆっくりと沈んでいく。光が薄れる。砂が崩れて隙間を埋め、文字の輪郭が見えなくなった。最後に一文字目の光が一度だけ瞬き、それきり消えた。
消えたのではない。沈んだだけだ。根の奥に戻った。けれど、あの名はもう一度浮いてこられるだろうか。根が千切れる前に。
「行こう」
あさひが静かに言った。振り返らない。
「ここに立っていても亀裂は止まらない。座標を直す方法が先だ」
こよいは立ち上がった。膝に砂がついている。払おうとして、掌に金色の粉が残っているのに気づいた。亀裂のそばにしゃがんだとき、根から漏れた成分が砂に混じっていた。
指先が温かい。さっき沈んでいった二文字の、最後の体温。
おたまが握った手へ鼻先を寄せた。金色の粉を舐め取ることはせず、匂いだけを確かめて地下へ耳を向ける。沈んだ名が消えたのではなく、根の奥へ退いたのだと、その姿が教えていた。
その手を握り、巾着に触れた。神々が小さく脈打つ。地下で根に繋がったまま沈んだ名に、巾着の中の名たちが応えている。
ぱきり。
遠くでまた、地面が割れる音がした。
三人は歩き出した。亀裂の走る砂の上を、根の道を踏まないように慎重に。こよいの右手は握ったまま。金色の粉の温もりが、掌の中でまだ消えていなかった。
沈んだ名前に、いつか必ず戻ると、こよいは金色の粉を握った掌の中で、静かに誓った。
自分の影が南を指すということ——それは、こよい自身が生きた道標になったということだった。名前を集める旅が、いつのまにか、名前に選ばれる旅に変わっていた。




