第376話 風の車内
南へ向かう列車の中で、こよいは、写本に宿る名前たちを巾着へ移し替えていた。
余白を漂白され、白い縁に喰われていく紙は、もう長く名前を支えられない。久遠の指示だった——「紙が駄目なら、生きた器に移せ。神々の隣なら、名前は保つ」。頁を巾着の口に当てると、名前たちは墨の文字のかたちのまま、するりと布の中へ滑り込んだ。宵波浜で救った三柱。風の裂目で補完された五つ。裏の海の二つ。砂の転写の一つ。千年の古代の名。そして、まだ半分のままの断片たち。
四柱の神々と合わせて、巾着の中には今、二十三の脈動がある。腰に提げると、小さな町を一つ、抱えて歩いているような重みがした。
思考が、凍った。
海岸最後の停車場を発った瞬間から、風が変わっていた。換気口から入り込む自然の気流ではない。理の隙間から直接噴き出してくる、冷たく、重い風だった。風には色がないはずなのに、行灯の明かりに照らされると、その気流だけが薄い灰色の帯になって見えた。
それが耳元で囁いている。
帰れ。
帰れ。
声ではなかった。意味だけがある。言葉の形を持たない警告が、鼓膜の奥に直接押し込まれてくる。こよいは巾着を胸に抱きしめ、座席に身を沈めた。風が頬を打つたびに、考えの端が千切れていく。何を考えようとしていたのか、思い出せない。それ自体が恐ろしかった。一つの思考が頭の中で形を成しかけると、風がそれを攫い、砕き、窓の外の闇に放り出す。
天井の行灯が明滅している。蒼と赤銅の光が交互に壁を染め、三人の影が壁の上で大きく揺れ、一瞬だけ四つに見えた。四つ目の影は誰のものでもなかった。風の中に紛れ込んだ情報の残骸が、人の形に凝縮されて映ったのだ。
巾着の奥で、神々が微かに震えている。主の不安に応えようとする脈動だったが、その温もりすら風に攫われそうだった。脈動が一拍ごとに薄れ、布越しの温もりが遠くなっていく。背中が冷たい。冷気が背骨を伝い、頭蓋の内側にまで這い上がってくる。思考の端が凍るとは、こういう感覚なのだと知った。
座席の肘掛けに置いた手が小刻みに震えていることに、こよい自身は気づいていなかった。指の関節が白くなり、木の表面に爪が食い込んでいた。
「……見ろ」
久遠の声が、風の唸りを裂いた。
膝の上に広げた目録の頁が激しくめくれようとしている。指先でそれを押さえつけながら、義眼の蒼光を風の軌跡に向けていた。文字が紙面の上を逃げ惑っている。蒼い光に照らされるたびに配置を変え、読み取られまいとしている。文字が紙の縁に追い詰められ、頁の外に飛び出そうとする瞬間を、久遠の指が紙を押さえて食い止めた。
「この風はただの気流じゃない。列車そのものを遠心分離機に変えて、俺たちを振り落とそうとしてやがる」
唇が乾ききっている。瞼の下に深い疲労の影が刻まれていたが、目録の縁を握る指は白くなるほど力が込められていた。義眼の蒼光が明滅するたびに、左目の周囲の皮膚が赤みを帯びていく。出力の上げすぎだった。
「……異物? ぼくたちが?」
こよいの声は途切れがちだった。巾着の紐を握りしめる指先が白く変色している。風が髪を乱暴に掻き上げるたびに、胸の奥が軋んだ。
車窓の外を、無数の光の粒子が列車の進行方向と逆に流れている。かつてこの路線を通った旅人たちの記憶の残滓だった。理の遠心力に剥ぎ取られ、虚空へ放り出されたもの。光の粒子は窓硝子に当たるたびに弾け、硝子の表面に一瞬だけ文字の断片を残して消えた。
このまま風に振り落とされたら、巾着の中の名前たちも、あの温もりも、永遠に闇の底へ沈む。その恐怖が胸の奥を氷の手で掴んでいた。呼吸が浅くなり、肺に入る空気が足りない。
あさひが立ち上がった。
無言で通路の真ん中に立ち、風の源を睨みつけた。
風が、彼の周囲だけを避けた。荒波の中に突き立てられた巨岩のように、あさひの存在そのものが嵐の流れを二つに割っている。一歩踏み出すたびに床板が軋み、その音が風の唸りと低く共鳴した。足元の板が沈み込み、あさひの重さが列車の骨格に伝わっていく。
「振り落とされるもんかよ」
剣の柄に手を添えたまま、声は低く、太い。風の唸りに負けない声だった。
「俺たちは自分の足でここに立ってる。風ごときに行き先を決められてたまるか」
抜刀の構えではなかった。ただ、そこに立っている。それだけで風を退けている。あさひの背中が、こよいと久遠の間に壁を作った。風はあさひの両脇を抜けていくが、背後には届かない。
こよいはその背中を見つめた。震えが、少しずつ収まっていく。巾着の中の神々の脈動が、かすかに強さを取り戻した。
久遠が目録から一瞬だけ視線を上げ、あさひの姿を確認した。口の端がわずかに歪む。自嘲とも安堵ともつかない、微かな表情だった。それから再び、頁の上を逃げ惑う文字を追い始めた。
風は依然として冷たい指で三人の肌を引っ掻き続けていた。だが、もうその力では足りない。三人の間を流れているものの方が、風よりも強かった。
巾着の底で、月の神が光を放った。小さく、しかし確かに。布を通して金色の光がこよいの胸を照らし、その温もりが風の冷気を押し返した。移り住んだばかりの十九の名前たちも、四柱の周りに身を寄せ、脈を揃えている。器が紙から布に変わっても、守り合う形は変わらなかった。
おたまは、風の通り道のど真ん中の床で、丸くなって眠っていた。思考を千切る風が、猫の夢だけは千切れずにいた。その寝姿が、三人には何よりの答えに見えた。この風は、恐れるに足りない。
列車は風の咆哮を纏いながら、闇の回廊を突き進んでいく。




