第377話 切符の裁断
通路の奥から、足音が来た。
風の唸りを貫く、規則正しい靴音。車掌の朔也だった。
古めかしい制服のボタンが一つだけ鈍い銀色に光っている。制服の肩章は擦り切れ、袖口の縫い目が綻びかけていた。長い年月を着続けた制服だった。帽子の庇を深く被り、その陰から三人を見据えていた。
空気の質が変わった。
先ほどまで暴れ狂っていた情報の突風が、朔也の前では勢いを弱め、代わりに張り詰めた静寂が降り積もり始めている。風すら畏れるものが、そこに立っている。通路の壁板が軋むのも止まった。天井から落ちていた塵も、朔也の周囲だけは避けるように落下の軌道を変えている。
半歩後ろに、少女の姿をした澪が付き従っていた。足音がない。地面に触れることなく滑っているかのような移動。その手に握られた赤い紙包みから、朱肉とも血潮ともつかない甘く生臭い匂いが漂い、こよいの胸の奥に言い知れぬ不安を植えつけた。匂いが車内に広がるのではなく、こよいの鼻だけを狙い撃つように一直線に届いている。
「……切符を拝見します」
感情を排した声だった。乗客への敬意など微塵もない。職務の遂行だけがある。声が空気を切り、壁に当たって反響もせずに消えた。
朔也の手に改札鋏があった。使い込まれた黒鉄の輝きを帯び、刃と刃の隙間から蒼白い光が糸のように漏れ出している。握りの部分は手の形に削れていた。何千、何万の切符を切ってきた道具の、使い手と一体化した姿だった。
久遠が義眼の蒼光を、その鋏へ集中させた。刃の表面に微細な紋様が浮かび上がる。蒼光が紋様を読み取ろうとするが、文字が次々と入れ替わり、固定した記述にならない。動く刻印だった。
「あれが理の裁断機だ。あの鋏で乗客の行き先を切り落とし、都合のいい終着駅へ誘導してきた。座標切断の術式が刻まれている」
声は低く抑制されていたが、言葉の端に長い年月をかけて溜まった怒りの震えがあった。目録の頁が風もないのに激しく揺れている。書物そのものが、あの鋏を恐れているのだ。頁の縁が震え、紙の繊維が逆立つようにざわついている。
こよいは巾着の中から切符を取り出そうとした。
指が動かない。
凍りついたように関節が固まり、巾着の口紐に指先が絡まったまま、ほどけない。焦れば焦るほど感覚が遠のき、自分の身体が自分のものでなくなっていく恐怖が喉の奥からせり上がってくる。巾着の中で神々が震えている。名前たちの脈動が細く速くなり、怯えを伝えていた。
澪が紙包みを差し出した。赤い色が行灯の光を受けてぬらりと艶めく。匂いが濃くなる。紙包みの表面に文字のようなものが浮かんで消えた。
「切り落とす? ぼくたちの切符も、ここで全部無効にされるの?」
声は震えていた。けれど問いかけの奥に、怯んではならないという芽が生まれ始めていた。巾着の中の名前たちが揺れ、掌に温もりを伝えてくる。切符を守れ、という無言の激励だった。二十三の脈動が一斉にこよいの指先へ向かい、凍りついた関節にほんの少しだけ血が通い始めた。
この切符は、宵波浜の停車場で手にした一枚の紙片。三人がこの世界に存在する資格そのものであり、失えば旅路の記憶ごと消滅する。
あさひが動いた。
剣の柄に右手を添えたまま、半歩前へ。朔也と、こよいの間に入る位置。改札鋏が切符に届く前に、必ず自分の身体が割り込む距離に立った。通路の床板があさひの足の下で軋み、その重みが車体全体に伝わった。
抜刀の構えではない。ただ、そこに立っている。
「切らせはしない」
低く、短い。声に力を込めているのではなく、力を抜いた声だった。だからこそ、車内の空気が一段重くなった。
「この切符は俺たちが自分の足で稼いだ証だ。誰にも傷つけさせない」
朔也が帽子の庇の下で目を細めた。動揺か、冷笑か、判別がつかない。澪の紙包みが微かに揺れ、朱肉の匂いが一層濃くなった。
そのとき、朔也の視線が、ふと座席の上のおたまに移った。
鋏を持つ手が、一瞬だけ止まる。それから車掌は、猫に向かって、ごく浅く帽子の庇に指を当てた。敬礼に似た仕草だった。切符は、求めなかった。
——あんたも一緒かい。切符は要らないんだねえ。
いつかの老婆の声が、こよいの耳の奥で蘇った。この世界の改札は、どの駅でも、この猫を数えない。
三人と車掌の間に、糸のような緊張が走った。
風の唸りすらも、その一瞬だけは息を潜めた。
長い、長い数拍ののち——朔也は鋏を胸の隠しに納めた。
「……次の検札まで、保留とします。切符の真贋は、行き先が決める」
澪が朱い紙包みを抱え直し、車掌の半歩後ろへ戻る。二人の姿は、連結部の闇に溶けるように消えた。足音は、車掌の分しか聞こえなかった。
こよいは巾着の中の切符に指先が触れるのを感じた。紙の表面は冷たいが、奥からは旅路の全ての記憶の熱が微かに脈打っている。指先の感覚が少しずつ戻っていた。名前たちの温もりが、凍った関節を溶かしている。
改札鋏の刃が行き先を切り落とすよりも先に、三人は自らの意志で、この列車の終着駅を選び取らなければならない。
車輪の軋む音が遠くから響き、列車が再び動き始める気配が足元に伝わった。




