第333話 砂の灯
列車はその夜、海沿いの小さな停車場で長い停車に入った。宿を探して夜の浜辺を歩いていると、砂が光った。
月明かりの反射ではない。砂の下から、淡い光が滲んでいる。蛍のように瞬くのではなく、ゆっくりと呼吸するように明滅していた。
こよいは立ち止まった。
光は一つではなかった。足元から数歩先まで、点々と砂の中に埋まっている。色はどれも同じ暖かい金色で、砂粒の隙間から漏れるように地表を照らしていた。
「名前だ」
久遠の声が低く響いた。海図を広げ、義眼の蒼光を落とす。
「この浜にはかつて井戸があった。地図にはまだ座標が残っている。だが、井戸そのものは壊されている。受け皿を失った名前が、行き場をなくして砂に沈んだんだ」
あさひが屈んで砂を見た。光は砂の表面から指三本分ほど下にある。手を翳すと、砂越しに微かな温もりが伝わってきた。
「生きてるな」
「ああ。名前はまだ消えていない。ただ、呼ぶ者がいないから浮かび上がれない」
こよいは膝をついた。砂に手を置く。粒が肌にざらついて、その下に柔らかな熱がある。神々に触れたときに似ていた。小さな神の体温。
巾着の中の神々が跳ねた。砂の下の光に応えるように、布越しに温もりが強くなる。
「同じだ」
こよいは呟いた。
「神々と、同じ温かさがする」
「当然だ。どちらも名前の灯だからな。神々はこよいが受け止めた。この砂の下の名前は、誰にも受け止められなかった。それだけの違いだ」
久遠は海図から目を上げ、浜辺全体を見渡した。光の点が十以上ある。それぞれが砂の下で静かに明滅し、夜の浜を星空の裏返しのように照らしていた。
こよいは両手で砂を掘った。
指先が光に近づく。砂がさらさらと崩れ、金色の光が露わになっていく。掌ほどの窪みの底に、光の粒があった。砂粒より小さい。だが、その一粒が放つ光は、月よりも近く、確かだった。
触れた。
温かい。
経蔵の凍った記録でも、インクの潮でもなかった。これは生きている温度だ。名前がまだ諦めていない熱。
光の粒が、こよいの指先の上で揺れた。持ち上がろうとしているのに、力が足りない。何度も震えて、また砂に沈みかける。
こよいは写本の束を取り出した。砂の光と、紙の上の名前を見比べる。どの名前がこの光に対応しているのか。
海図を覗き込んだ。久遠が義眼の光で座標を照合する。
「三番目の写本だ。壊された井戸の座標と、この光の位置が一致する」
こよいは三枚目の写本を開いた。墨で書かれた名前が、夜風に揺れる。
声にする。
名前を呼ぶのは怖かった。経蔵で学んだ。名前を口にするたびに、呼ぶ者の存在が薄くなる。自分の輪郭を削って、名前に道を作る行為だ。
でも、砂の下で震えている光を見て、怖いままでいることはできなかった。
本当は、あさひに読んで渡す約束だった。読む者と、呼ぶ者。列車の中で決めたばかりの役割。
でも、掌の上の光は、あまりに弱かった。命令の声では、この震えは飛び立てない。おいで、と迎える声でなければ——そう思った瞬間には、もう口が動いていた。
こよいは息を吸い、写本に書かれた名前を読み上げた。
声が砂浜に落ちた。
潮騒が一瞬止まった。波が引く音も、風の音も、すべてが名前に道を譲るように静まった。
砂の下の光が跳ねた。
掌の上の光の粒が震え、浮かび上がった。砂を離れ、こよいの指先の高さまで上がり、そこで留まる。
写本の紙が引き寄せられるように揺れた。こよいの手の中で紙が震え、光の粒がその上に降りた。
墨の文字が光を吸い込んだ。
紙の表面で、名前の文字が一瞬だけ金色に輝き、すぐに黒い墨の色に戻った。だが、文字の深さが変わっていた。さっきまでは紙の表面にあった墨が、紙の繊維の奥まで染み込んでいる。名前が、写本の中に根を下ろしたのだ。
こよいの指先が痺れた。
声を出した代償が、遅れてやってくる。痺れは指から手首に上がり、肘の手前で止まった。軽い。今回は軽い。だが、積み重なれば——。
「——おい」
あさひの声が、頭の上から落ちてきた。低く、硬い。
「約束はどうした。読んで、俺に渡す。決めたのは今日だぞ」
「……ごめん。でも、この子、弱ってて。『戻れ』じゃ飛べないと思って」
「思ったなら、先にそう言え」
あさひは屈み込み、こよいの透けた右手を掴んだ。掴めた。透けていても、掴める。その事実を確かめるような、強い握り方だった。
「お前が呼ぶのが正しい場面は、ある。だから、順番の問題だ。まず俺が呼ぶ。だめなら、お前が呼ぶ。その一言の相談を飛ばすな。……消えかけの奴に、黙って消えられるのが、一番堪えるんだよ」
最後の一言だけ、声が少し掠れていた。こよいは頷いた。今度は、言葉にして。
「うん。次は、先に言う」
「大丈夫か」
久遠が訊いた。
「うん。まだ大丈夫」
こよいは手を握り、開いた。痺れが引いていく。完全には消えないが、動かせる。
写本を閉じた。紙の中で、名前が落ち着いたように温もりを放っている。
砂浜を見た。残りの光がまだ点々と瞬いている。全部で十三。一つ呼ぶごとに、こよいの輪郭が薄くなる。十三回呼べば——。
「今夜は一つでいい」
久遠が写本を受け取り、束に戻した。
「欲張るな。呼べる数には限りがある。お前が消えたら、残りの名前を呼ぶ者がいなくなる」
あさひは黙って浜を見ていた。光の一つ一つに目を向け、数えているようだった。おたまは、まだ砂の下にいる光のひとつのそばに丸くなっていた。砂ごと温めるように、朝まで動かないつもりらしかった。
「十三か」
「ああ」
「一晩に一つなら、十三夜だな」
あさひはそれだけ言って、砂に腰を下ろした。
こよいは巾着を抱えた。神々が穏やかに脈打っている。写本の中の名前も、同じリズムで温もりを返していた。二つの熱が、布と紙を隔てて寄り添っている。
波が寄せた。砂浜の光が揺れる。砂の下で眠る名前たちが、今夜呼ばれた一柱の気配を感じ取ったのかもしれない。明滅が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
夜風が吹いた。潮の匂いに混じって、温かなものが鼻をかすめる。インクではない。名前の温度が、風に乗ったのだ。
こよいは砂の上に座り、光を見つめた。
十三夜。それだけあれば、全部拾える。
指先の痺れが、まだかすかに残っていた。




